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井上ひさしさん直筆の手紙200通超見つかる 岩手の親族宅で 仙台で過ごした中高時代につづる

 劇作家・作家の井上ひさしさん(本名廈(ひさし)、1934~2010年)=山形県川西町出身=の直筆の手紙が、岩手県釜石市の親族宅に大量に保管されていることが分かった。10代~20代の多感な時期に母や兄らに宛て、将来の夢や仕事への情熱などが率直につづられている。関係者はひさしさんの作品や思想を研究する上で貴重な資料だとしている。(文化部・宮田建)

大量に保管されていたひさしさんの手紙の一部

 保管しているのは兄滋さんの妻淑子さん(87)。中学、高校時代を過ごした仙台時代を中心に200通以上あり、母マスさんがひさしさんや弟の修佑さんに送った手紙も大量に残っている。家族写真などと共に段ボール9箱に収められ、大部分は公開されたことがないという。

 ひさしさんの手紙は、いずれも難しい漢字を多用し、小さな字でびっしり書かれている。高校時代は楷書体、大学時代は丸みがかった文字で、成長するにつれて字体が変わっているのが分かる。ひさしさんが後に「仙台で人になった」と述懐した仙台時代の手紙は、特に重要な資料となりそうだ。

井上ひさしさん=2002年12月

 仙台時代の手紙には、肉親への情愛を感じさせる文面が何度も出てくる。中学3年時には「私は祈りのとき一家四人平和に幸福にくらすようにと毎日100回となえてゐます」とつづった。ひさしさんは4歳で父修吉さんを亡くし、不遇が重なり14歳からマスさんと離れて暮らした経緯があり、家族が一つ屋根の下で過ごしたいとの願いが強くにじみ出ている。

 仙台市の児童養護施設でのキリスト教との出合い、映画観賞と読書に明け暮れた仙台一高での生活、進路や社会への問題意識も書かれている。「私には大きな将来があります(中略)母さんや兄さんへ御恩を受けて修佑に盡(つく)し、又社会の貧しい人々に盡さなければなりません」と覚悟がうかがえる。

 ひさしさんは上智大在学中にラジオドラマのシナリオの仕事を始めた。劇作家を目標に据え、どのような戯曲を目指しているかも手紙で打ち明けている。

 淑子さんは、手紙をひさしさんゆかりの地の文化施設に寄贈する考え。著作権を管理する妻ユリさん(71)=神奈川県鎌倉市=は「私信のため公開には難しい問題がある。淑子さんと相談しながらしかるべき場所で保管し、今後の調査研究に委ねたい」と話した。

[赤間亜生・仙台文学館副館長の話](中学、高校時代を過ごした)仙台時代の手紙はほとんど見たことがない。第一級の資料だ。書籍や脚本、講演では分からない暮らしぶりがよく分かる。将来は筆で食っていくという覚悟が伝わってくる。カトリック系養護施設や高校での生活が人格形成や作品にどう影響したのかも見えてきて感慨深い。

人間ひさし 鮮明に

 劇作家・作家の井上ひさしさんは中学3年時に親元を離れ、肉親の情愛を求めながら、仙台で厳しい青春時代を送った。母や兄に宛てた手紙からは希望に燃えて勉学や読書に励み、夢に向かって懸命に生きる姿が浮かぶ。

 仙台一高の同級生で憲法学者の樋口陽一さん(90)=仙台市=は仙台時代をひさしさんの人間形成に重要な時期と捉え、手紙の価値を重く見る。

 樋口さんは自律を重んじた一高について、「彼の気風に合っており、将来への『前提』が出来上がった」と指摘する。当時過ごした児童養護施設「光ケ丘天使園」(現ラ・サール・ホーム)でキリスト教と出合って西洋の人道主義や博愛などを知る一方、共産主義を支持する母や兄とのはざまで「懐疑の精神を身に付けた」と語る。

 天使園は戦災孤児が多く、兄弟が一緒にいて母親が時々面会に来るひさしさんたちはいじめの対象にもなった。そこでの体験が弱者へのまなざしを芽生えさせ、護憲・平和主義を育み、批判精神に根差したユーモアのある作品につながっていった。

光ケ丘天使園で笑顔を見せる中学3年のひさしさん(右)=仙台市宮城野区東仙台(仙台文学館提供)

 <絶対戦争なんてやりません。今まで世界の知識階級は実に暴力に対して意地がなかった。私は将来の知識階級を目指して居るのですが暴力とは徹底的に闘うつもりです>(高校2年)と書き残している。

 天使園時代の手紙は、参考書や書籍などを求める内容も少なくない。土建業や屋台の焼き鳥屋を営んでいた母マスさんや兄の生活は楽ではなく、仕送りがままならない時もあったという。それでもマスさんは<あなたはなにも心配せづに、上級学校に進む事を考へて、勉強して下さい><誠実に努力さえすればいつも神は助けて下さいます>と励まし続けた。

 それだけに一高に入学したひさしさんの喜びはひとしおだった。<一高は東北では文句なしの一番優秀な学校で今後も中学生のあこがれの的となるに違いありません><先生はいづれも各界のけんゐ者で(中略)生徒が自分の個性を育てる為にはもってこいの先生方です>

 将来の夢は映画監督、新聞記者、医師と揺れ、最後は劇作家で身を立てる決意を固めた。大学時代は、東洋興業が東京・浅草で経営するストリップとコントの劇場「フランス座」で文芸部員兼進行係をしながら同座の台本も書き、さまざまな脚本の懸賞に応募した。

 文化庁芸術祭の応募作品を書いていた1957年ごろの手紙は<東洋興行の芝居を書いたのでは、泥沼に落ちこんでしまふ。東洋興行からは生活の糧を得れば良い。余った時間は、私の本當に書きたいものを書くべきだ>と焦りもにじんでいる。

 <私の探し求めている真の日本の演劇とは、浅草の軽演劇の手法で、日本人の思想をもった、、哲学的な深い意味を持った芝居>。差出人欄に「三文劇作家 廈(ひさし)」とある手紙では創作の原点が垣間見えるなど資料価値は高い。

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