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かつて あのまちは (5)女川町 港での月日、児童と共に 高清水英俊さん

震災後の2012年3月まで勤めていた旧女川二小校舎の前に立つ高清水さん
震災前の女川町の様子(高清水さん提供)

■高清水英俊さん(48)=石巻市須江しらさぎ台=

 女川町に来たのは2006年です。女川一小、二小と赴任しました。街は港近くから家がひしめき合っていて、駅につながるメイン道路には喫茶店や電気屋さん、釣具店とかがずらっと並んでました。にぎやかな商店街という感じでしたね。

 その道を通っていくと、女川二小へ続く坂につながっていました。そこを通って登校する子もいましたね。週明けには「海で泳いだ」「釣りをしてきた」って週末の話をしてくれる子どももいました。

 毎週のように、町内で何かしらイベントがあったんです。「秋刀魚(さんま)収獲祭」とか。子どもたちも鼓笛隊や「おらが江島」の踊りを披露して参加してました。女川一小の当時から学校行事も活発でした。学芸会の他に、生涯教育センターでの音楽発表会とかね。

 センターは4階建てのグレーっぽい外装で、中にはキッチンや和室がありました。和太鼓を保管していて、総合学習の時間に高学年が和太鼓を教わってました。真剣な表情で、頑張ってましたね。希望した子どもが1週間泊まって、自炊したり、ゆぽっぽでお風呂に入って一緒に寝てたりもしたそうです。

 場所は忘れちゃったんですけど、女川町観光無料休憩所っていう六角形の建物があって。放課後に子どもが集まって、無料で使えるパソコンで検索したり映像を見たりしてました。

 よく魚介を買いに行ってたのはマリンパル女川。独特な造りをしてました。1階がぐるっと円を描くように海産物のお店が並んでいました。隣の建物には展示施設もあって、子どもが放課後遊びに行くこともあったみたいです。

 09年から二小に赴任しました。一小と学区が違うので、私を知らない人たちが出てきます。なので、一から人間関係づくりをしてました。学校にとどまってるのはあんまり好んでないもので、子どもたちが帰るときに一緒に家に行ったりしたんですよね。

 すると地域の方々ともコミュニケーションが取れるようになって。港近くのお家の1軒が「お茶飲んでがい」なんて言ってくれたりして、世間話する時間が取れていました。サンマの時期には、ちょうど買ってきたやつを「先生、持ってけー」と。人情深い。

 体育専門なので、やっぱり運動会なんかは印象深いですね。女川一小のとき、ちょっと前に流行した「集団行動」。子ども同士で交差したり、すれ違ったりして入場してもらったんです。難しかったですけど、当日はちゃんとやれたので印象は今でも残っています。楽しかったですね。

 活発な子が多かったので、盛り上がりました。今では午前中だけなんですけど、当時はお昼挟んで午前、午後と。そのときは騎馬戦とか棒倒しの競技があって、激しく土ぼこりが舞い上がっていました。

 あの日は地震の後、校庭で待ってる間に津波警報がきました。登米出身なので、津波が来るなんてあまり想像しなかったんですけど、波が街に入ってきたのが見えました。本来はないはずの所に水があって、大きな漁船が街の中にゆうゆうと入ってった。

 もう…毎日子どもたちと一緒に帰ってた街並みがなくなってしまったんですからね。これは後世に伝えなきゃない。震災後に生まれた子たちに、この町に生まれたからには震災を覚えておいてもらって、次の命を守る動きができたらいいよね。

【高清水英俊(たかしみず・ひでとし)さん】 
 1976年4月登米市中田町生まれ。2006年、結婚を機に石巻市に移住。講師として女川一小、二小に赴任。12年に教員免許を取り、現在は女川中で体育を担当する。

(渋谷和香)

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