かつて あのまちは (4)北上・白浜 海・川・山、自然の宝庫 佐藤富士夫さん



■佐藤富士夫さん(76)=石巻市北上町十三浜=
海水浴でにぎわったのが一番の思い出だな。昔はどこの町でも学校や子ども会の「海浜学校」があったから、お客さんがうんと来てた。大型バスが次々に来て、当時あった月浜中の校庭を借りて駐車するほどだったよ。
部落会が砂浜に駐車場を開設して、乗用車1台400~500円で止めさせてた。年間80万~100万円ぐらいになって、運動会なんかの行事や、バス借りての旅行とか、部落会の運営費に充ててた。
震災前は砂浜のすぐ前に民家が41戸あって、それぞれの家が庭にも止めさせてたな。夏は畑をつぶして車を置かせて、秋になったら耕して-ってね。砂浜には海の家のほかに、各世帯が作った休憩所が数十棟並んでた。ビニールハウスの骨組みにブルーシートで日よけを作って、1張り2000円で貸すの。1世帯3、4棟までって決めて。お年寄りにはいい仕事だったな。
地引き網も盛んだった。新鮮な魚を食べるために、部落で一つの網を作って年5、6回引いてた。カレイ類やボラ、ウグイなんかが取れたな。明日は魚取りするって声がけすっと各世帯から1人ずつ集まってきて、魚を均等に分けて、番号付けてくじ引きするわけ。当時はたくさん魚が取れて、観光用に地引き網を引かせるグループも出てきて、1日計9回引かせても魚が入る時代だったよ。
白浜の強みは、海あり、川あり、山あり、コメありというところ。土地が少ないから、コメは上流の大須地区の田んぼで作ってた。山で炭焼きして、お正月に向けて現金収入の足しにしてた家も多かった。何でもあるから白浜になら娘を嫁にやってもいいなんて言われたもんだ。
祭りといえば、部落対抗の運動会だな。吉浜小学区の追波から白浜までの6部落対抗で、男女おそろいのジャージーを作ってね。学区には子どももいっぱいいて、100メートル走やムカデ競走、二人三脚なんかは応援がすごかったよ。白浜が強かったのは綱引き。地引き網があっから負けたことないね。
41戸しかないのに、商店は3軒もあった。牛乳や駄菓子、調味料とか売ってた。小学生だった孫たちは、すぐ近くの武山商店に100円持ってアイス買いに行ってたな。
宿泊施設は最盛期には白浜ホテルと旅館の白浜荘、民宿も2軒あって、夏はどこも繁盛してたよ。岬にあった「白浜ホテル」から見た夕焼けが忘れられねえな。お風呂場の設備工事に行った時、夕日が北上川に沈むように見えて。実際は奥の山さ沈むんだけど、川面がオレンジ色になって、そりゃきれいだった。家内との結婚式も白浜ホテルだったな。
家内と2人の孫は、北上総合支所で津波の犠牲になりました。毎日お墓に行って、3人に話しかけてる。毎年お墓のそばに花を植えてんだ。去年までは3人の名前を花文字にしてた。天国から見えるようにな。今年は「じいさんげんきだ」にしてみた。こんなにお墓に来んのは地元で俺ぐらいだけど、それが俺の務めだと思ってんだ。
震災後、自宅があった場所は、日帰りキャンプ場の「白浜ビーチパーク」になってね。海水浴場では俺も監視員やってんだ。だけど、新型コロナで3年間休んだらお客さんがぐっと減ってしまったな。監視台からマイクでお客さんに話しかけんだ。「来年またお会いしましょう」って。また白浜さ来て楽しんでもらいたいからね。
【佐藤富士夫(さとう・ふじお)さん】
1949年1月石巻市北上町十三浜白浜生まれ。震災時は水道設備会社に勤務。津波で白浜海水浴場近くにあった自宅が流失し、近くの高台に再建した。白浜・長塩谷自治会長、海水浴場の管理運営を担う白浜ビーチパーク運営組合の組合長などを務める。
(相沢美紀子)
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