田中完一(たなか・さだかず)さん 志津川愛鳥会創設者(南三陸町)ー野鳥保護の大切さ伝える

海岸で野鳥を観察する子どもたちと田中=南三陸町
志津川愛鳥会が発足当初の子どもたちと田中(前列右から3人目)=1953年
鳥塚の石碑を見詰める郁子さん。東日本大震災の津波で流されたが、三浦さんが見つけた=2020年11月、南三陸町

 南三陸町の志津川愛鳥会は1953年に発足し、地方の愛鳥団体の草分けとして知られる。創設者で初代会長の田中完一(23~85年)は、子どもたちに自然の大切さを伝え、野鳥保護活動に尽力した。
 旧志津川町で田中医院の長男として生まれ、中学生の頃から鳥に興味を持ち始めた。日大卒業後に肺結核で3年半入院し、28歳で静養と医師国家試験の勉強を兼ね妻子と郷里に戻った。
 病室から大切に持ち帰ったジュウシマツが、愛鳥会誕生のきっかけだ。近所のわんぱく小僧たちが珍しがって、毎日のように集まった。
 愛鳥会の歩みを記した小冊子に、田中は「鳥の世話を見守る子どもの瞳は真剣だった。交友の時間が増えていった」とつづっている。
 戦後間もない当時は食料事情が悪く、自然保護への社会的関心が低かった。「鳥類の保護は大人には期待できない。子どもたちなら野鳥と自然の大切さを理解してくれる」。野鳥保護の先達で日本野鳥の会仙台支部長だった熊谷三郎氏(故人)の言葉にも背中を押された。
 その後、鳥好きの少年たちと愛鳥会を結成。会員は小中学生が対象で、会のモットーは「野鳥は空に花は野に 自然のままに愛しましょう」を掲げた。
 最盛期は会員が100人を超えた。野山での探鳥会や巣箱掛け、日曜日の例会は鳥のスライドを見せた。年末恒例の反省会では子どもたちの頑張りをたたえ、賞状を贈った。必ず添えた「よくやった、君は偉い」との一言は、今も教え子の記憶に残る。
 内科医だった田中は自らを「鳥きちやぶ医」と称した。長男(故人)の妻郁子さん(66)=南三陸町=は「父にとって鳥は生きがい。体が弱かったため、子どもたちとの活動に慰められたと思う」と語る。愛鳥会のOBは親交会として活動を支え、「父と母は外息子と呼んでいた」と懐かしむ。
 愛鳥会の調査活動は、ハクチョウなど冬鳥が飛来する伊豆沼(栗原市など)の天然記念物指定、翁倉山(石巻市など)のイヌワシ繁殖地の特別鳥獣保護区指定に貢献した。
 田中が亡くなった後、会長を継いだ三浦孝夫さん(72)=同町=は「イヌワシの保護には一生懸命だった。一緒に巣立ちを見たこともある」と回想する。
 愛鳥会は入会する子どもが減り、2001年に48年の歴史に幕を閉じた。OBで南三陸ネイチャーセンター友の会会長の鈴木卓也さん(49)は「(田中会長から)自然と生き物へのまなざしを教わった。できれば愛鳥会を復活させたい」と語る。
(南三陸支局・佐々木智也)

[メモ]1958年に田中医院の庭園に鳥塚の石碑が建立された。碑に刻まれた∧志津川に今日たつこれの鳥塚に射たれし鳥もねむれ安けく∨の歌は、日本野鳥の会創設者の中西悟堂氏(故人)が贈った。碑は現在、郁子さんの自宅の庭に立つ。

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