あの日、防災庁舎で(1)震度6弱。「津波が来る」「ここは6mなら大丈夫だ」

高さ15・5メートルの大津波で43人が命を落とした南三陸町防災対策庁舎=18日、宮城県南三陸町の震災復興祈念公園

 「ゴーッ」という地響きが伝わる。築55年の木造庁舎が音を立てて激しく揺さぶられる。「ついに本番がやって来たか」。「来るぞ、来るぞ」と言われていた宮城県沖地震に違いない-。宮城県南三陸町の町職員が一様に身構えた。
 2011年3月11日午後2時46分。佐藤仁町長(69)は、本庁舎の議場で定例議会の閉会あいさつをしていた。「これからも安全安心なまちづくりに向けて…」。可決された予算案には、30年以内に99%の確率で発生が予想された宮城県沖地震対策も盛り込まれていた。
 気象庁発表の震度は6弱。「津波が来るな」。遠藤健治副町長(72)は長く強い揺れが収まると防災服に着替え、本庁舎に隣接する防災対策庁舎に急いだ。
 防災庁舎は鉄骨3階で高さは約12メートル。危機管理課が入る2階には、災害情報の受信システムや防災行政無線などの機能が集約されていた。
 「15時、6メートル!」。誰かが叫んだ。地震から3分後の午後2時49分、全国瞬時警報システム(Jアラート)で気象庁の大津波警報が入った。
 「ただちに災害対策本部を設置」。遠藤副町長が指示すると、職員たちは配備計画に従って慌ただしく動き始めた。
 佐藤町長は、少し遅れて危機管理課の室内に設置された災対本部に向かった。背広を放送室に置こうと目をやると、既に危機管理課の三浦毅課長補佐=当時(51)=と遠藤未希さん=当時(24)=の2人が、防災行政無線で「急いで高台に避難してください」と呼び掛けていた。自家発電機は作動していた。
 「あと6分しかねぇな」。佐藤町長が職員から津波の予想到達時刻を聞き、壁の時計を見た。午後2時54分だった。「出て行って途中で津波にやられるんだったら、屋上だ」。当初高さ6メートルと予想された津波に、切迫感はなかった。

 防災庁舎は指定避難場所ではないが、狭い災対本部の中央のデスクを取り囲むように人であふれかえった。
 「おめぇたち、本部以外の者は別の配備に付け」「住民の避難誘導をしながら高台へ向かってくれ」
 地震直後に遠藤副町長らが促し、多くの職員が任務に就いた。本部要員の危機管理、総務、企画の3課の職員と本庁の課長以外の職員も少なくなかった。
 「怖い、怖い」。余震におびえ、ヘルメットをかぶって身をかがめる若い女性。ぎゅうぎゅうの部屋の片隅に4、5人の女性職員が身を寄せ合い、その場から動けずにいた。
 「情報収集で庁舎間をうろちょろしているうちに、避難誘導の業務が頭から飛んでしまった」。辛うじて助かった町民税務課の三浦勝美さん(58)が、遠巻きに本部の様子を見ていた当時を振り返る。
 災対本部には総務や企画部門の経験者もいた。「公務員のさがと言うのかな。災対本部を手伝おうと思ったんだべなぁ…」。生き残った職員が重い口を開く。
 町の災害検証報告書などによると、役場本庁舎には地震後、約60人の職員がいたとみられる。防災庁舎には警察や消防、県など関係機関のほか、近隣の住民やシステム業者らもいた。「危ないからこっちへ来て!」。ある職員はよかれと思い、老夫婦を建物に呼び入れた。
 町は1960年のチリ地震津波で高さ5・5メートルの津波に襲われ、県内最多の41人が犠牲になった。宮城県沖地震による津波の想定は市街地で6・7メートルだった。
 災対本部の壁時計は、津波到達予想の午後3時を回った。
 「5・5メートルの高さの防潮堤もある。ここは6メートルの津波なら大丈夫だろう」
 宮城県沖地震だと信じ込んでいた佐藤町長らに、危機感はまだなかった。
(肩書は当時)

 南三陸町の防災対策庁舎は東日本大震災による高さ15・5メートルの大津波にのみ込まれ、町職員33人を含む計43人が命を落とした。赤茶けたむき出しの鉄骨が今も津波の威力を物語る。生き残った佐藤町長ら町職員11人全員の証言から、壮絶な1日を時系列で振り返る。
(報道部・吉田尚史、南三陸支局・佐々木智也)
=8回続き=

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