南三陸町防災庁舎、チリ地震を教訓に対策 想定の3倍の津波にのまれる

震災前の南三陸町防災対策庁舎=2005年9月

 宮城県南三陸町は1960年のチリ地震津波を教訓に津波対策を進め、防災対策庁舎もそれを踏まえて建てられた。東日本大震災では、チリ地震津波の3倍近い15・5メートルの津波が防災庁舎をのみ込み、町職員33人を含む計43人が犠牲になった。
 チリ地震津波では5・5メートルの津波が町中心部を襲い、県内最多の41人が犠牲になった。本庁舎は2・4メートル浸水している。町は高さ5・5メートルの防潮堤を整備。チリ地震津波で浸水した高さを示す標識や避難誘導サインを設置するなど防災意識の向上に努めてきた。
 防災庁舎は旧志津川町時代の1995年、本庁舎の隣に完成した。阪神大震災を教訓に震度7の揺れに耐えられる鉄骨構造にした。海岸に近く、海抜1・7メートルの低地にあるため、1階の浸水を想定。2階は災害時の対策本部とし、防災行政無線など防災設備を置いた。3階には行政文書を保管する書庫や自家発電装置を設けた。
 宮城県沖地震が起きた場合の県の被害想定(2004年)では、到達する津波の高さは最大6・7メートル。震災の津波の高さは、この想定も大幅に上回った。
 犠牲になった町職員の中には、災対本部の参集基準に該当しない職員もいた。町は2012年度、震災時の職員の聞き取りなどを基に災害検証報告書を作成。震災時、職員の初動対応マニュアルが未整備だったことを反省点に挙げた。

解体見送り県有化、慰霊と防災教育の場に

 震災の津波で被災し、多くの命が失われた南三陸町防災対策庁舎を巡り、町は保存か解体かで揺れた。
 町は2013年に一度は解体を決めた。だが、宮城県の提案を受けて31年3月までの県有化に同意し、解体は見送られた。
 防災庁舎は現在、20年10月に全面開園した震災復興祈念公園内にあり、津波の猛威を伝える遺構として、慰霊と防災教育の場となっている。
 町民有志は20年に「防災庁舎について考える会」を発足させ、町民らに呼び掛けて定期的に意見を交換している。町は県有化終了後の方針は示していない。
 犠牲になった職員遺族からは、町長の責任を追及する声も上がった。佐藤仁町長が適切な避難指示をしなかったため犠牲になったとして、2遺族が12年に町長を業務上過失致死の疑いで告訴したが、15年に不起訴処分になった。

震災の津波で倒れたチリ地震津波の水位標識=2011年3月23日、南三陸町
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