軌跡(10)気仙沼・千葉瑛太さん 古里離れ挑む心沸々と

カフェで英語の勉強に励む千葉さん=1日、東京都八王子市

 「将来は気仙沼復興のためのまちづくりがしたい」。家族5人の命を奪った東日本大震災の発生後、千葉瑛太さん(19)はたびたび受けた取材によくこう答えた。

 本心だった、とは決して言い切れない。

 「(マスコミや周囲が)期待することを言わなければ」「気仙沼で生まれた以上、地域を背負って生きなければいけない」。そう思い込んでいた。

 宮城県気仙沼市の牛乳販売店の長男。父の清英さん(51)は2014年、野球少年だった息子の願いをかなえるため「フェニックスバッティングセンター」を市内の高台に開設し、親子でマスコミに取り上げられた。

 今は東京都八王子市に暮らし、語学の専門学校に通う。古里を離れ視野が広がった。

 「世界各地を旅して新しい景色や人々と出会いたい」。当面は来年秋の英国の大学進学を目指し、寝る時間を削りながら英語などの勉強を続ける。

 震災時は南気仙沼小3年生だった。津波が校舎1階まで押し寄せたが、上の階で難を逃れた。ただ家族7人で助かったのは自分と、牛乳販売店の事務所に近い橋の欄干にしがみついて九死に一生を得た父だけ。

 母美奈子さん(40)、妹のくるみちゃん(6)と祐未ちゃん(3)、祖父宏一さん(67)、祖母美代子さん(62)=年齢はいずれも当時=は車で避難中に津波にのみ込まれた。親戚2人も失い、市中心部の自宅も流失した。

 家族の火葬で泣いた後、ほとんど涙を見せなくなった。市内の別の場所に一時避難して仮設住宅へ。友達とも離れ離れになった。

 「なくしたものが多すぎた。考えても仕方がない」。オリジナルの乳製品を開発するなど、父の懸命な姿に「自分も前を向かなくては」と言い聞かせた。

 夜は父と同じ布団で寝る生活。仮設住宅の狭さが理由か、本来いるはずの母や妹たちの姿がないことにも慣れた。

 ただ小学校で弁当持参の日は違った。不器用な父の手作り弁当はありがたいが、友達より見劣りする。「やっぱりいないんだ」。喪失感が込み上げた。

 無理しているように見えたのかどうか。中学3年の時、父から思いもしないことを言われた。「一度、気仙沼を離れて視野を広げた方がいい」。父の出身地・東京の私立高への進学を勧められた。

 飛び込むと、別の世界や友人との出会いがあった。父と共に台湾や米ハワイを訪れ、米オレゴン州の高校に短期留学もした。「知らないことがたくさんある。狭い考えに閉じこもっていたかも」。肩の力が抜け、好奇心がどんどん膨らんだ。

 将来の夢はあえて決めていない。気仙沼に戻るかどうか、何の仕事に就くか、未定のままだ。何にでも挑戦してみたい。取りあえず今年8月から半年かけ、ヒッチハイクなどで日本一周をする計画だ。

 「不謹慎かもしれないけど、家族を失ったのと引き換えに今の自分がある。今度は自分で人生を切り開き、社会に還元していくことが使命だと思う」

 母に伝えたいことはたくさんある。一つ選ぶなら「もう20歳になるよ」。そう言いたい。

 気仙沼に縛られることなく、好きなことに挑んでほしい-。父の言葉に背中を押されながら、成長する姿を母たちにも見てほしい。
(丹野綾子)

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