「あの日から」第10部 軌跡(12) 名取・鈴木英二さん 被災家屋で津波伝える

震災遺構として維持してきた家屋前で当時を振り返る鈴木さん=1日、名取市下増田

 仙台空港の東側に広がる更地に、一軒家がぽつんと立っている。1階の外壁は失われ、むき出しになった骨組みが東日本大震災の津波の威力を示す。

 「百聞は一見にしかず。その思いは伝えられたんじゃないか」。被災家屋に住んでいた名取市の会社社長鈴木英二さん(79)が振り返る。

 震災後、内陸部の同市増田に住まいを再建し、全壊した同市北釜地区の家屋は震災遺構として私費で保存してきた。震災10年の節目に撤去を決め、今年2月、市に土地を売る契約を結んだ。

 2011年3月11日、紙一重の差で命拾いした。その経験が、後半生の原点となった。

 自宅近くの診療所で点滴を受けている最中に大きな揺れに見舞われた。「大変な出来事だ」。すぐさま車で帰宅した後、経営する同市下増田の三英駐車場に向かった。途中、あちこちで道路が陥没していた。

 「黒い壁」が目に入ったのは駐車場で片付けをしていた時だった。海岸から空まで続いているように見えた。

 「津波だ!」

 社員と車に飛び乗り、約300メートル先の空港を目指した。隣接する仙台空港駅の外階段を駆け上がる。黒い波は間近に迫っていた。

 「30秒遅かったら流されていた。神様か仏様か分からないが、不思議と生かされたんだ」。家族や社員は無事だったものの、事務所や送迎車は流された。

 北釜地区は住民約400人のうち50人以上が犠牲になり、一帯は災害危険区域に指定された。「遺構を見たくない人もいるだろうが、絶対に後世に伝えなければと思った」。人々が暮らしていた証しが消えゆく中、高さ約4メートルの津波にも流されず残った家の保存を誓った。

 遠目にも目立つ家屋は木造2階で、屋根の四方にひさしを付けた入り母屋造りが特徴だ。「一緒に頑張ってきた両親が元気なうちに」と1985年に建てた。人一倍の思い入れがある。

 実父は戦死した。中学生の頃、中国から引き揚げてきた親類の養子になった。一家は北釜地区の丸太小屋で生活を始めた。塩作り、ホッキ貝漁、パルプ材の切り出し…。農地の開墾にも精を出し、4度の建て替えの末、集落で最も大きな家になった。

 震災5カ月後にはバイデン米大統領(当時は副大統領)が訪れ、献花してくれた。支援団体と取り組む海岸林再生プロジェクトでは、1万2000人以上の植樹ボランティアらが足を運んだ。

 風雨による劣化を防ぐため、約400万円を投じて鉄骨やトタン板で補強してきた。「子どもには負の遺産となる。震災を伝えるという自分の役目は果たせた」。海岸林の植樹活動は昨秋で終わった。「臨空拠点」として開発する市の事業が動きだしたことも決断を後押しした。

 被災した家屋は今後、解体撤去されるが、市から思いがけない提案があった。廃材を再利用し、近くの北釜防災公園にあずまやを建ててはどうかという。

 「壊すだけでは悲しいが10年間発信してきた私の思いを生かせるかもしれない。早くても遅くても駄目。タイミングは不思議だね」

 震災の記憶を後世に伝えようと、東北の空の玄関口近くで奮闘してきた。その思いが形を変えて受け継がれることを願う。(小沢一成)

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