「震災10年 あしたを語る」元復興庁事務次官 岡本全勝さん エース級集結、自腹で現地に

岡本全勝さん
東北6県のキャラクターと共にDCをPRする小縣会長(左)、深沢社長=仙台市青葉区

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から10年がたった。あの時は国の中枢で何が起き、復興は官民でどのように進められてきたのか。当時と10年間を知る政治、行政、経済のキーマン4人が語る。

 <東日本大震災の発生から1週間後、被災者支援の事務方トップに就いた>
 2011年3月11日当時は自治大学校の校長だった。総務省幹部から18日朝に電話があり「明朝、首相官邸に行ってほしい」と告げられた。嫌な予感がした。官邸では仙谷由人官房副長官(故人)が待っていた。
 「膨大な数の被災者がいる。生活支援の責任者をやってくれ」。思わず「何をすれば?」と聞くと、「それを考えるのが君の仕事だ」と返された。どう手を付ければいいか分からないまま全てが始まった。
 <08~09年、麻生太郎首相の秘書官を務めた。民主党政権での要職復帰は異例中の異例だ>
 旧自治省(現総務省)出身で地方財政に詳しいから白羽の矢が立った。仙谷さんが麻生さんに「使わせてくれ」と仁義を切ったそうだ。秘書官を務めたから各省庁のキーマンは知っていて、人脈が大いに役立った。
 各省庁は「エース級」の職員を派遣してくれた。私は防災の専門家でも復興の専門家でもない。自治体の事情に詳しいだけで、実務を担う彼らに救われた。
 <19日、政府の被災者生活支援特別対策本部が本格始動した>
 震災当日から初動対応に当たっていた内閣府防災の職員に「被災地で起きている問題点を整理してくれ」と頼んだ。警察や自衛隊、自治体が持っている情報と、避難所で必要な物資の把握を急いだ。「おむつが足りない」というから赤ちゃん用かと思ったら、高齢者用だった。現場の声を拾うことは何より重要だった。
 被災3県ごとに担当者を置き、意思決定プロセスを明確化した。定刻に会議を開いて論点整理し、宿題は翌朝に解決するルールを作った。「遺体袋が足りない」「人工透析患者がいる」。課題は刻々と変化した。
 <職員は「自腹」で被災地に通った>
 当時はまだ組織の体をなしておらず、被災地とを往復する旅費が支給されずに個々が立て替えていた。若手は月3、4回新幹線で通い、宿泊費も入れると給料が消えた。何万人も犠牲になった重い現実が職員を鼓舞した。途中で離脱した職員もいたと思うが、みんなよく耐えてくれた。
 <4月2日、菅直人首相に同行して自衛隊ヘリで陸前高田市に入った>
 私の背丈より上は何もなかった。建物も電信柱も。空が広く感じた。自衛隊ががれきをよけて切り開いた道路のあちこちに、しおれた菊の花があった。しばらくして意味を理解した。
 菅首相は避難所を訪問したが、「被災者の邪魔になる」と私は遠慮した。玄関に立っていると、初老の女性がポツリと言った。「『何人が亡くなった』とか人の死を数字でくくるのが寂しい。それぞれの人格、人生があったはずよ」。その言葉に、自分が背負った重責を再認識した。
 <悲しいし、しんどかったが、目の前には四十数万人の被災者がいた>
 亡くなった人たちには申し訳ないが、生き残った人たちが安心して暮らせる場所を用意するのが官僚の仕事だと割り切るしかなかった。早く物資を届け、風呂に入れ、仮設住宅を完成させることを急いだ。
 2012年2月、復興庁が発足した。前身の被災者生活支援特別対策本部から職員の顔触れはほぼ変わらなかった。画期的な取り組みは復興事業の全額国費負担だ。財政が厳しい自治体は数%でも負担する余力がないことは明白だった。
 総務省のプッシュで財務省が決断した。「出し渋りする彼らがよく許したな」と驚いた。私有財産に公金を投じる企業グループ化補助金など、従来の復旧哲学を覆す施策が次々と生まれた。1000年に1度の災害で前例がないのは当たり前。「大宝律令を作る感覚」が霞が関にはあった。
 <巨額予算によって過大な事業も散見された>
 防潮堤や防災集団移転はやり過ぎとの批判もあるが、当時は復旧を急ぐのに夢中だった。時間の経過でこれだけ人口流出が進んだのは誤算で、今後の災害では人口減を想定した街づくりに転換すべきだろう。
 <20年5月、復興庁の10年延長が決まった>
 福島は課題が多く、組織を残すのは必然だった。地震津波と東京電力福島第1原発事故は全く別物。前者は天災、後者は東電と経済産業省の責任だ。福島に対しては「復興支援」ではなく、「償い」だということを国は絶対に忘れてはならない。
 復興庁は省庁縦割りを排せたのかとよく聞かれるが、横串を刺す一定の役割は担えたと思う。被災地の要望をたらい回しにせず、省庁とつなぐ「電話交換手」となった。館を設けず「○○本部」のままでは窓口がどこか分からず、責任を果たせなかっただろう。
 今はいわば「東日本復興庁」。政府が10年延長を検討した際、内閣府防災と一体化した「一般復興庁」に衣替えすべきだった。内閣府防災は緊急対応の仮設住宅までが所管で、その後の街づくりは担当外だ。組織の見直しが必要だろう。
 <20年11月、復興庁顧問を退いた>
 官僚人生の最後の10年が震災と共にあった。退任の日、ある政治家に「君はえらい目に遭ったな。でも、仕事に恵まれた官僚でもあった」と声を掛けられた。
 神様を恨むべきか感謝すべきか。亡くなった方々には申し訳ないが、官僚として自分の人脈や経験を発揮する場を与えてもらったという意味で感謝している。
 日本は今、新型コロナウイルス流行の危機にある。情報を一元化し、物事に優先順位を付ける震災の経験は生きているだろうか。能力が高い官僚に実務を任せ、組織の長はそれを束ねるだけでいい。私のような年寄りが口を出すと現役官僚が嫌がるから黙っているが。
(聞き手は桐生薫子)

[おかもと・まさかつ]1955年、奈良県明日香村生まれ。東大卒。78年旧自治省(現総務省)入省。2008年、麻生太郎首相秘書官。東日本大震災被災者生活支援特別対策本部事務局次長を経て12年復興庁統括官、15年事務次官。内閣官房参与、福島復興再生総局事務局長、復興庁顧問を歴任し、20年退任。

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