「震災10年 あしたを語る」前福島県大熊町長 渡辺利綱さん 国・東電の対応 先行きが不安

原発事故を振り返る渡辺さん=大熊町

 苦悩や悲嘆に満ちた東日本大震災からの10年。たくさんの経験と思索を重ねた今、歳月にどんな意味を見いだせるのだろう。それぞれの立場で被災地とともに歩み、現在に至る道のりを見つめ続けた6人が語る。

 <町長在任中、東京電力福島第1原発事故で全町避難した。2019年4月に町の一部が避難解除され、役場庁舎を避難先の会津若松市から戻した>
 1万超の町民の生命と財産を守る責務の重さを感じた。最大の出来事は町内の帰還困難区域に中間貯蔵施設を受け入れた時(14年12月)。町民の意見は「絶対反対」「条件次第」「協力する」に三分した。反対の人は「先祖が苦労して開墾した」、協力する人は「早く生活再建を進めたい」。どれも間違いではない。判断は本当につらかった。
 <政府は11年12月、中間貯蔵施設設置検討を双葉郡8町村に要請。大熊、双葉両町が施設を受け入れた>
 県全体の復興を考えると除染で発生した汚染土の保管場所が必要。誰かがやらないといけない。避難でお世話になった市町村で汚染土を詰めた黒い袋が積まれた光景に胸が痛んだ。
 最終的に多くの地権者が理解してくれた。最近売却を決断した人もいる。印を押す手が震え、「これで良いのか」と葛藤する人も。国は「高値で買ってやっている」という上から目線では困る。地権者の痛みを忘れてはならない。
 <原発でたまる汚染処理水の処分、除染や避難解除の時期を国が示していない帰還困難区域の「白地地区」など課題が絶えない。さまざまな分断の懸念も>
 処理水の海洋放出に賛成か反対かという単純な話ではない。反対決議をした県内の市町村議会は多かったが、陸上保管を続けることは大熊、双葉には困る。代案を出すとか、県、国全体で考えようとか言う市町村がもっと出てほしかった。
 ある県外の国会議員が「地元の汚染土壌は量が少ないから中間貯蔵施設で何とか受け入れてほしい」とお願いに来た。それは違う。皆で負担しようと言うなら分かるが、残念だった。
 白地地区の除染時期など時間軸を示してほしいと国に言い続けてきた。帰還困難区域全域の除染は当然。帰る帰らないは町民が決めること。帰る人が少ないからお金がかかる除染はせず、自然減衰を待つと言うなら国の姿勢の後退だ。
 中間貯蔵施設を受け入れたのだから処理水は国と東電がもっと責任を持つべきだ。難題は事故で溶けた核燃料デブリ。国や東電の処理水の対応を見ると、処理の先行きが不安になる。
 <福島第1原発1号機の運転開始から50年。原発の光と影を見てきた。事故後も東北電力女川原発など再稼働の動きが続く>
 農閑期に出稼ぎしなければならなかったが、原発で働けるようになり所得が向上した。日本の高度経済成長を支えた自負もある。
 一方で原発に依存し過ぎるとそれに代わる産業創出が難しくなり、自治体も財政面から増設に頼るようになる。安全だという考えが染み付くのが共生の危うさ。今後は脱原発に傾くだろうが、再生可能エネルギーはまだ高負担。原発はリスクの大きい過渡期のエネルギーなのだと思う。
 避難道の整備は必要だったと反省する。避難当時、国道288号は大渋滞だった。内陸につながる狭くカーブが多い山間の国道。事故前、県に整備をお願いしたが「かえって住民の不安をかき立てる」と消極的だった。事故後に整備を始めたが、事前にするべきだ。
(聞き手は玉應雅史)

[わたなべ・としつな]1947年、福島県大熊町生まれ。宮城県農業短大卒。大熊町議会議長を経て2007年の町長選で初当選。3期務め、19年11月に退任。大熊町在住。

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