(5完)常磐道全通へ最前線で奔走

常磐道の工事再開を振り返る真壁=宮城県村田町

元東日本高速道路いわき工事事務所長 真壁正宏(66)=宮城県村田町

 東京電力福島第1原発事故から約半年後の2011年秋。後に東日本高速道路いわき工事事務所長となる真壁正宏(66)=宮城県村田町=は防護服を身に着け、国の担当者と共に常磐自動車道の現場に入った。

 当時は東京にある本社の建設課長。地震で路面が陥没したり、のり面が崩れたりしていたが、技術職の長年の経験から、復旧工事自体は難しくないと感じた。

 「線量を除けば、通常の災害復旧現場。問題は人が入れるかどうかだった」。除染は手付かずで、空間放射線量が高かった。工事再開に高いハードルが立ちはだかった。

 東日本大震災発生時は鹿角市にある十和田管理事務所長だった。管内に大きな被害はなく、津波被災地への応援派遣の準備を始めようとしていた矢先、本社への異動の内示を受ける。震災から5日目だった。

 本社での仕事は明確だった。常磐道の工事再開。警戒区域となり、立ち入りが制限される中、会社単独で仕事を進められない状態だった。国土交通、環境、厚生労働など関係省庁と協議を重ねる日々が続いた。

 誰も経験したことのない現場での作業再開に、社内には慎重な意見もあった。首都圏と結ばれていたのは常磐富岡インターチェンジ(IC、富岡町)まで。「道路をしっかり1本つながないと復興は始まらない」との思いを強くしていた。

 社員や作業員の健康管理の仕組みを構築した。現場に入る作業員が集められるかどうかは分からず、いわき市まで資材を運ばないと言う業者もいた。問題を解決するために、建設業者との契約方法を見直した。

 12年10月、いわき工事事務所長として赴任した。事務所に残っていた職員ら約20人の反応は冷ややかだった。工事を本当に再開するのか。「現地の不安は大きかった」。3カ月をかけて、一人一人と膝詰めで話し合った。

 自分でハンドルを握り、朝から暗くなる前まで無人の現場周辺を回った。安全に線量管理ができる広い建物を探した。イノシシやキジが走り回る中、富岡町内に完成直前の空き工場を見つけた。会社と交渉し、何とか場所を確保した。

 13年4月の工事再開後も、人の動きに腐心した。救急車が現場に入ることが困難なため、けがや事故を起こさないように指示を徹底。マスコミの取材も積極的に受けた。「作業員に自分たちがやっている仕事の大切さを分かってもらうためだった」と打ち明けた。

 約1年後の14年2月、広野(広野町)-常磐富岡IC間の復旧工事が終わり、通行止めが解除された。そして、15年3月1日、常磐富岡-浪江IC(浪江町)間の工事が完了し、常磐道は全線開通を迎える。

 式典には首相安倍晋三(当時)が駆け付けた。2カ月後に定年退職を控えていた。「会社に入ってからの集大成が常磐道だった」。原発被災地を「大動脈」が貫き、人やモノが少しずつ動き始めた。
(敬称略)

第4部は加藤健太郎、岩崎かおり、吉田千夏、佐々木薫子が担当しました

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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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