インパール作戦 死線さまよい自決も覚悟 飢えや高熱、救われた命

出征前の菅原さん(左)。隣の男性はマラリアで戦病死した=1944年、会津若松市
戦地での体験を記した著書を手にする菅原さん=栗原市鶯沢の自宅

 15日、76回目の終戦記念日を迎えた。コロナ禍の夏、遠い戦禍の伝承がより身近に重く響く。

 日本兵の白骨が並ぶジャングルで自身も死線をさまよい、2度自決しようとした。インパール作戦に投入された宮城県栗原市鶯沢の菅原利男さん(97)は当時の記憶をたどり「(生還できたのは)運が良かっただけだ」と振り返る。

 菅原さんは農家の7人きょうだいの長男。1943年4月、みゆきさん(95)と結婚した。8カ月後の20歳の時に徴兵され、福島県会津若松市の部隊で訓練を受けた。

 44年6月、南方戦線のビルマ(現ミャンマー)に送られた。戦後の歴史検証で「史上最悪の作戦」と評されたインパール作戦。当時、現地では先に投入された多くの兵士が遺体となり、白骨化していた。妻子の写真を枕元に置いたまま息絶えた姿もあった。

 食料もなく、飢えとマラリアで仲間が次々と命を落とした。菅原さんは「みんな家族を案じて死んでいった」と話す。

 菅原さんもマラリアを発症し、40度の高熱を出す。行軍する仲間の足手まといになるよりは手投げ弾を抱いて死のうと考えた。「菅原、死ぬな」。戦友2人が止め、手投げ弾は捨てられた。水ばかり飲んで1週間歩き、小隊と合流した。

 2度目は、両目を負傷した小隊長を背負い撤退している時だった。泥に埋もれた豆地雷を踏み、戦友が次々と死んでいった。ジャングルの中に民家があり、小隊長と2人で泊まった。気力も体力も尽き、軍刀に手をかけた。「菅原、明日が早いから休め」。目がほとんど見えないはずの小隊長が語り掛け、菅原さんは正気に戻った。

 10日ほど歩き続けて連隊本部と合流し、終戦を迎えた。所属する電信十九連隊には約2000人いたが、生き残ったのは600人ほどだった。47年春、両親とみゆきさんが待つ古里に戻った。

 戦後60年の2005年、体験を次代に伝えようと戦記「パゴダの祈り」を自費出版した。現在、戦友たちは亡くなり、帰還者は集落に菅原さん1人となった。床の間には、今も戦友と出征前に撮影した写真を飾る。

 今年2月、ミャンマーで国軍がクーデターを起こした。国軍に抗議する市民1000人近くが弾圧の犠牲になり、心が痛んだ。

 補給が軽視されたインパール作戦で、住民から食料を奪った。住民は、捕虜となった日本兵にコメや果物を恵んでくれた。配給不足と過酷な労役に苦しむ中で大いに救われた。

 菅原さんは声を振り絞って訴える。「ミャンマーで恩恵を受け、戦争の恐ろしさを知る人間として日本政府に言いたい。ミャンマーの人たちが平和を取り戻せるよう尽くしてほしい」

[インパール作戦]1944年、ビルマから山岳地帯のジャングルを越え、当時英領のインド北東部、インパール制圧を目指した作戦。精神論が重視され、軍需補給の軽視と敵戦力の過小評価に基づいた計画。事前の図上演習でも無謀と判断されたが、牟田口廉也司令官は作戦に反対した3師団長全員を解任して強行した。参加兵士約9万人のうち約3万人が戦死、約4万2000人が戦病死したとされる。戦後、関わった司令官や参謀が作戦の責任をなすり合った。

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