<今こそノムさんの教え(24)>「一流の脇役になれ」

 前回「変化を恐れるな」は少し上から目線で指導側の親心を紹介したので、逆に野村監督の下でもがいた選手たちの苦悩と格闘にスポットを当てる。「まず監督に認められなくてはいけない。俺との戦いに勝て」。こう言われて常に厳しい視線にさらされても、反発心を顔に出さず、みんな頑張っていた。大変だったなあ、今なら思い出話になるけれど。今回の語録「一流の脇役になれ」。

 2009年5月末まで脅威の打率4割で大ブレークした選手がいた。入団4年目の草野大輔。球団新記録の21試合連続安打を放つなど、年間通して活躍し3割5厘の成績を残した。その巧打を野村監督も「天才」と評した。当時、草野に飛躍の道のりを聞くと不意に過去の苦闘を明かした。

 「今までベンチとの戦いだった。この状況で何をすればいいのか、打席から野村監督の顔ばかりうかがった。頭がパンクしていた。最近やっとそこを脱して投手と対戦できるようになった」

 確かに試合で臨機応変な所作ができなれば監督に「根拠は何だ」と追及され、立場を失う恐怖があった。試合後の記者会見でぼやかれ、新聞を通じて間接的に批判を受ける日常だった。

 草野は社会人球界で「最強打者」と言われたスラッガー。だが身長170センチと小柄。野村監督に変身を求められた。「バットを短く持て。頭を使って配球を読め。それが生き残る道だ」と。草野は懸命に脇役の仕事を覚えようとしていた。

 突破口はチーム随一のミート技術だった。「追い込まれてヤマも張らずに来た球に対応できる。それは草野だけだ」。安打量産で首脳陣の信頼を勝ち得て、不可欠な存在となった。

日本ハムに勝利し、ハイタッチでナインを迎える東北楽天の野村監督=2009年10月23日、札幌ドーム

 全国のエースや4番が集まるプロ野球。お山の大将として過ごしてきた選手に野村監督は常々説いた。「全員が主役にはなれない。それぞれの役割があってチームになる。己の分を知って分に生きよう」。そして「一流の脇役になれ」と。野村ヤクルトの教え子、土橋勝征、宮本慎也らを成功例に示した。

 野村監督は主力ほど叱責した。伸び悩む選手は「自分はこれくらいの選手でいい。そんな『妥協』『満足』『限定』をするな。成長を妨げる」と断じた。辛口のぼやきで意義を呈したのが07年オールスター戦。

 ファン投票で東北楽天選手8人が大量選出された。本拠地フルスタ宮城を舞台に15年ぶりに東北開催される球宴は、事前から盛り上がった。しかし監督はあえて水を差した。「球宴とは一流同士の戦いの場。これでは意味がなくなる。やめてほしいわ」

 本塁打、打点でリーグ1位の山崎武司、高卒新人で大活躍の田中は堂々の選出。ただほかの多くは「組織票か」と疑われた。監督は自軍選出選手を慢心させない意味も込め、批判した。

 「オール・スターダスト(星くず)だよ」

 これにプレーで抗議する選手が現れる。球宴8人衆の一人、高須だ。

 球宴出場決定後の7月5日ソフトバンク戦で延長十回、意地の決勝打を放った。1死満塁から速球派の守護神馬原孝浩からきれいに中前へ運ぶサヨナラ打。しかもシュートで内角を突かれても屈せず、「狙い通り」と外角低めの変化球を仕留めた。野村監督も顔負けの読みの一打。さすがに「必殺仕事人やな。勝負強いわ」と認めた。

ソフトバンク戦でサヨナラの中前適時打を放つ高須=2007年7月5日、フルスタ宮城(当時)

 平安貴族のような涼しげな風ぼう。それでいて「内面は燃えている」という仕事人に試合後、失礼ながら聞いた。「『オールスターダスト』をどう思いますか?」。質問を想定していたかのように、切れ長の眼を鋭く光らせて一言。

 「少しだけ光りますよ。星くずですが」

 前年に打率3割を記録した不動の二塁手で選手会長。思うところがあった。

 高須には草野のような「ベンチと戦う」意識はなかった。既に一定以上信頼されているとはいえ、雑念のない雰囲気はどこから来るのか。この際聞いた。

 「意図を持って打席に入る。後は『凡退したらごめんなさい』『使った方が悪い』と思えばいい」

 失敗への恐れから逃れる発想力。いわゆる「割り切り」。それが06、07年にパリーグ1位の得点圏打率を誇ったゆえんだった。

 野村監督の厳しさを糧にした選手がもう1人。渡辺直人(現1軍打撃コーチ)だ。1、2番を高須と組み、敵チームに嫌がられる攻守のキーマンだった。

 09年クライマックスシリーズ(CS)を控えた練習、渡辺直が飛球を打った。以前に社会人シダックス監督だった野村監督にある記憶がよぎる。全国一を争ったライバル三菱ふそう川崎に特有の打ち上げる打法。渡辺直も当時の選手だった。

 「いいかげんに三菱打法はやめろ。お前の仕事は長打ではない」。監督が突然、雷を落とした。翌年以降の監督契約延長が見えず、リンデンとももめた時期(第21回「ひらいてせまる」参照)。「監督これは八つ当たりでは?」。傍観した記者たちは内心思った。

 「打ち方は日々直そうとしている。疲れてくせが出る時もあるのに…」。優等生の渡辺直も珍しく平常心を失いかけた。翌日極端にたたきつけるような打法で練習。すると首脳陣に「反抗的態度か?」とみなされ、不穏な空気が漂った。

 ここで渡辺直は冷静になった。「これでは入団後3年間積み上げた信頼感まで失う。監督に成長の余地を言われたと受け止め、頑張ろう」。持ち前のひた向きさを取り戻し、関係悪化を未然に回避した。そして日本ハムとのCS第2ステージ。敗退の土俵際の第3戦、同点打を放って希望をつなぐ勝利に貢献する。

 「何が三冠王や。ちゃんちゃらおかしいわ」。野村監督は南海(現ソフトバンク)で1962年戦後初の三冠王になった。それでも鶴岡一人監督に皮肉られた。そこで「見返してやる」と悔しさを原動力にした。だからこそ監督として教え子の反骨心をあおり、あえて神経を逆なでもした。

 ノムさんは何年たっても鶴岡監督への恨み節を隠さなかったが、野村門下生はどうだったか。それはまた別の話で。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

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[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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