<今こそノムさんの教え(22)>「やめたくない」

 松坂大輔(西武)、斎藤佑樹(日本ハム)、雄平(ヤクルト、宮城・東北高出)。高校時代から注目された選手たちが燃え尽きたように次々と引退した。ちょうど12年前、球団初の2位躍進、クライマックスシリーズに出場したのに、異例の契約終了となった野村監督は憤まんやるかたなく言った。それが今回の語録「やめたくない」。こう一切思わず、完全燃焼して終われる人は一握り。最近の映画で「心を燃やせ」という言葉がはやったが、最後まで命の炎を燃やそうとする姿は人を引きつける。

引退セレモニーであいさつする青山(左)と久保=2020年12月5日

 「そんなに野球がやりたいんだったら、自分から行動に出なよ。家で待っていても何も始まらないわよ」

 2016年師走、妻は少し前までプロ野球選手だった4歳下の夫に言った。

 前年秋に戦力外通告を受けた後、別球団で1年生き延びたが、再び戦力外に。11月のトライアウト受験後、待てど暮らせど吉報が来ない。36歳の夫は球団関係者の見知らぬ番号から携帯電話が鳴るかとそわそわしながら、毎日家に引きこもっていた。「いよいよどこからも誘いがない」

 数日後、夫はあるパーティーの会場にいた。ほぼ面識のない球界の大御所に現役続行を直談判する覚悟だ。「名前くらいは知ってもらえているかもしれないが、自分なんかがお目にかかって失礼に当たらないか」。弱気の虫を振り切って、大御所に頭を下げた。

 「ピッチャーをやっています、久保裕也と申します。何とか御球団でお世話になれませんでしょうか」

 頭を上げると、こわもての相手は理解を示した。「お前の気持ちは買った。入団テストを受けてもらう」。相手は東北楽天の星野仙一球団副会長。

 久保はしっかり体を仕上げ、翌年2月、沖縄県金武町で入団テストに臨む。「1%でも望みがある限り頑張る」。野球人生最後かもしれない実戦マウンド、1イニングを見事無失点で終えた。さあ合否は? 星野副会長は「経験のあるところを若手に見せてやってくれよ」と優しかった。

 直後の取材に久保は少年のような顔を見せた。「涙が出るほどうれしかった」。帰り際の冗談めいた言葉は、今振り返れば久保の自負だった。「皆さん、全然期待していないでしょ? でも俺、やりますからね」

 宣言通り、久保は40歳まで延命した。4季で79試合7勝1敗1セーブ12ホールドと奮闘した。節目の通算500試合登板も達成した。「何歳になったって伸びしろはあるんだ」「ゴキブリ並みの生命力で粘って生き残る」。気概が違った。

 全ては「星野さんにお願いしてみたら」とも背中を押した妻がいたから。20年12月、本拠地での引退セレモニー。「恩返しの旅行にも連れて行けていない」と思っていた久保は引退あいさつの最後、妻へのストレートな愛情を吐露した。

 「ユカへ、どんな時も味方でいてくれて、支えてくれて、信じてくれて、本当にありがとう。ユカに出会えて本当によかった。そして、生まれ変わってもまた、結婚しましょう」

 絵に描いたような幸せな結末を迎えた。

 

CS第2ステージ進出を決め、ファンにあいさつする野村監督=2009年10月17日、Kスタ宮城(当時)

 さて、そろそろ野村監督の話を。東北楽天監督時代、ライバルチームの女性リポーターがベンチにあいさつに来る度、チクリと言った。「俺はあんたのおやじに現役引退させられたようなもの」。そばで聞いている記者もちょっとドキッとした発言の真相とは?
 「50歳まで現役」と願って「生涯一捕手」を貫いた野村選手は1980年、西武で45歳の大ベテラン。首位で迎えた秋口の試合、1点を追う終盤1死満塁の絶好機で打席が回った。犠飛の通算記録で歴代1位の野村選手は「待ってました。最低限の犠飛を打つ自信はある」と思った場面。

 バットを手に打席に向かおうとした瞬間。根本陸夫監督が呼び止めた。

 「野村君、代わろう」

 代打で出た年下の左打者が、女性リポーターの父親だった。

 「打つな、失敗しろ」。ベンチで野村選手は念じた。結果は併殺打。「ざまあみろ、俺に代打なんか出すからだ」と心の中で快哉(かいさい)を叫んだ。

 野村さんは南海(現ソフトバンク)時代は選手兼任監督を務めた人だ。試合後の帰り道、車を運転していて気付いた。「仲間の失敗やチームの負けを願うようになったら終わり」。同時に「もう引退しよう」と心に決めた。ダブルヘッダーで12盗塁を許し、肉体的な限界も露呈していた。

 後日、球団に決意を明かすと、慰留もされなかった。「自分に引退してほしかったんだな」。肩たたきを受けた印象を覚えた。

 それから約30年。東北楽天の野村監督はベンチにあいさつに訪れた他球団選手にハッパを掛けていた。それはかつての野村捕手の「やめたくない」という本心にも聞こえる言葉。

 「捕手はベテランになるほどリードに円熟味を増すんだ。肩さえ衰えなければ何歳までだってできる。まだまだ頑張って俺の出場試合数を抜いてみろ」

 谷繁元信(中日)はこれに従って、2015年、野村選手の金字塔3017試合出場を更新した。

 2人と同じく高卒で27季、45歳までプレーしたもう1人が、野村監督の東北楽天での一番弟子山崎武司。11年秋、引退して指導者になる選択肢もあった中、退団して現役続行を探る道を選んだ山崎に、野村さんは言った。

 「お前は人に『そろそろ…』と言われて引退するような選手ではない。まだやりたいと次のチームを探せばいい。引退は自分で決めるんだ」

 山崎は古巣中日に復帰を受け入れられ、しぶとく2季プレーして13年引退。「年数だけでも恩師・野村監督に肩を並べる」という意地が最後の原動力だった。

 ここでお知らせがあります。20回を超える連載、これまでご愛読ありがとうございました。連載はしぶとく続きます。筆者ツイッター「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」で始めました。ご感想、フォローなど、よろしくお願いいたします。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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