<今こそノムさんの教え(30)>「人を遺すを上とす」

 「野村克也さんをしのぶ会」が11日、東京・明治神宮野球場で行われた。ヤクルト監督時の一番弟子、古田敦也さん(56)は原稿も見ず弔辞を述べ、恩師との日々を回想した。「時に厳しく、時に厳しく…。ずっと厳しい指導でした」。テレビなどではここで切り取られがちだったが、直後に「ただ…」と本音を明かしていた。「選手たちは監督に認められたい、監督に求められる選手になりたい一心で必死に付いて行き、成長することができ、そしてスワローズが強くなりました」

 野村さんも南海(現ソフトバンク)での選手時代、同じ道を歩んだ。「鶴岡(一人)監督に2度しかほめられなかった。三冠王になっても『ちゃんちゃらおかしいわ』とけなされた」。苦い記憶をスマートに言える弟子と異なり、年老いても恨み節丸出しだったのが、野村さんの人間くささ。鶴岡監督から受け継いだ厳しさは、「クソッタレ」と負けん気を胸に野球道を突き進む原動力となった。

 野村監督は反発心を後進に植え付けようとした訳ではなかった。単に要求が高かった。結果、厳しさに耐え抜いた人材が育った。晩年の東北楽天監督時代、よく言った。「財を遺すは下、仕事を遺すは中」。続く言葉が今回の語録「人を遺すを上とす」。

祭壇に掲げられた東北楽天・野村元監督の遺影

 南海で引き立てられた元投手江本孟紀さん(74)は最初の代表的な「人」だ。ここからその弔辞を紹介する。あまりにも端々に思いがあふれているので、全文そのままに。南海から移籍した阪神で「ベンチがアホやから野球がでけへん」と言って引退に追い込まれた「エモやん節」は影を潜めていた。小春日和、空の上にいるであろう野村さんへ向かって、とつとつと語り始めた。

     ◇    ◇
 野村さん、あなたが逝ってしまってからもう2年近く(昨年2月11日死去)がたちました。亡くなった次の日、お宅にお邪魔をしてお別れした日を忘れられません。本当に安らかなお顔をしていましたね。グラウンドで見たことのないようなお顔でした。

 あなたに初めて会ってから来年で50年になります。長いお付き合いでしたが、思い返してみれば、私があなたに褒められたのはたった一度しかありません。

 昭和47(1972)年あなたは自主トレ中の南海(現ソフトバンク)ホークスの中百舌鳥(なかもず)球場に、でっかいリンカーンで乗り付けてきましたね。あれには驚きました。私はその1年前にドラフト外(1965~92年にあったドラフト指名を経ないプロ入り方法)で東映(現日本ハム)に入団し、その年の暮れに南海にトレードされてきたばかりでした。キャッチャー兼監督だったあなたは、(1年目)0勝4敗の初対面の私に「俺が受ければ10は勝てる。先にエースナンバーを着けとけ」。そう言って16番をくれました。

 その年の開幕戦のダブルヘッダーで、私は阪急(現オリックス)の山田久志(能代市出身)と投げ合いました。延長十三回まで投げて、私の押し出しデッドボールでイチゼロ(0―1)で負けてしまいました。しかし帰りのバスで、あなたはチームメートに「お前ら今日は江本に借りができたな。次は返してやれよ」と声を張り上げてくれました。忘れもしません。

 私は高校(高知商)で甲子園の土を踏むことができず、大学(法大)でも社会人(熊谷組)でも不完全燃焼で、(23歳の時)ドラフト外でプロに入りました。その2年目の春に、あなたから「借りができた」と言ってもらいました。その時やっと野球選手になれたな、プロでやれるかもしれないなと自信が芽生えました。

 ただ、あなたに褒められたのは後にも先にも、あの一回きりです。

 その後、どれだけ勝っても、プレーオフや日本シリーズで勝ち投手になっても、引退して解説者、評論家になってからも、一度も褒められた記憶はありません。その揚げ句、「3悪人(他は同じく当時南海の江夏豊、門田博光の両選手)」とか言われていましたね。

 (日本記録の通算1065盗塁を誇る)福本豊(阪急)の盗塁阻止にしてもそうです。あなたが発明したというクイックモーション。実際は福本の足が速すぎて、キャッチャー・野村の肩ではどうしても間に合わなかった。だから監督・野村がわれわれピッチャーに命じたんですよね。「もっとちっちゃいフォームで早く投げろ」。南海の投手陣はアメリカから来たコーチを呼んで必死に練習しました。その結果キャッチャーの肩をフォローしました。

 ここ神宮球場では何度か大げんかもしました。あなたは阪神の監督で、解説者の私が投手起用を恐る恐る批判した時でした。あなたは次の日、神宮球場の三塁ベンチで私が来るのを待ち構えていましたね。阪神のピッチャー陣の名前を書いた紙を突き出して「どこに使えるピッチャーがおるんや! 見てみい!」。開口一番、えらいけんまくでした。

 結局、(試合間近の)シートノックが始まるまで、ベンチで言い争いをしていましたね。最下位続きの阪神で、選手のやりくりに苦労していたのかもしれません。しかしこの神宮でヤクルトに負けたくなかったのかもしれません。

 でも、野村さん。あなたには神宮球場も似合うけど、私の目に焼き付いているのは、大阪球場の、南海ホークスの野村克也です。(2015年に中日・谷繁元信が更新するまで歴代1位だった出場数)3017試合、(歴代2位の通算)657本塁打。南海で名選手になっていなかったら、その後の輝かしいキャリアはなかったと思います。

 私もあなたに背番号16をもらい、育ててもらって、(リーグ制覇した1973年に)胴上げ投手の経験もさせてもらいました。あなたとの出会いがあったから、いま私はここに立っています。

 大阪のなんばパークス(大阪球場跡地にある商業施設)に、南海ホークスのメモリアルギャラリーがあります。南海を辞めた時のもろもろのいきさつがあって(第4回「世界に一人しかいません」参照)、今まであなたの写真は1枚も飾られていませんでした。そこでファンの皆さんの寄付で、今年になってようやく写真や功績が展示されるようになりました。

 鶴岡さん、杉浦(忠、南海の大エース)さん、皆川(睦雄、米沢市出身で通算221勝)さん、ブレイザー(野村監督とシンキングベースボールを推進した参謀)…。空の上で、南海の先輩や仲間と仲良くやっていますか。その横にサッチー(妻・沙知代さん)はいるでしょうか? 悪口の言い合いをしているかもしれません。

 そのうち、私もまた入れてください。野村さん、空の上で私の声を聞いてくれていますか?
 強かった南海の4番バッターで、正捕手で、優勝監督。そんな大先輩の弔辞を私が任されるなんて、本当におこがましいです。きょうの弔辞はいかがでしたか? やはり、褒めてもらえないかもしれませんね。弔辞を読んだことを、いつか空の上のベンチで一緒に話ができたらいいですね。そのときはぼやきもなし、けんかもなしで2度目のお褒めの言葉をください。

 野村さん、本当に今までありがとうございました。

     ◇
 憎さと恋しさが巡り巡る。最後、心にどうしようもなく大きな穴が空いていると気付き、もう一度会いたくなる。会場で多くの「人」が同じようにノムさんへの一筋縄ではいかない愛情を抱いた。それを象徴する江本さんの素晴らしい弔辞だった。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当、ツイッターのアカウント名は「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」)

野村監督の遺影の前で思い出に浸る大勢のファン=11日、東京都新宿区の明治神宮野球場

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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