<今こそノムさんの教え(25)>「かがみになれ」

野村監督(右)の通算1500勝を祝い、花束を贈る選手会長の岩隈。この年、チームは2位で初のCS進出を果たした=2009年4月29日、Kスタ宮城(当時)

 1年のクライマックスを迎えるプロ野球。11月は東北楽天にとっても思い出深い日が多い。3日は東日本大震災後の2013年に悲願の日本一を達成した日。その優勝パレードに21万人が沸いた日が24日。でもみなさん、最初の記念日を忘れていませんか。1日が田中将大投手の誕生日? 惜しい、2日なんです。

 8年前のその日。東北楽天は初進出した日本シリーズ制覇に王手をかけ、東京ドームから戻ってきた。第6戦先発は31戦無敗のエース田中。誰もが王座奪取を疑わなかった。決戦の地Kスタ宮城(当時)のみならず、地元はお祭り騒ぎ。世の中は忘れているが、04年に球団の新規参入が承認された日だった。筆者も「日本一でダブル記念日になる」と胸躍らせて出社した。

 しかし割り当てられた取材は、同時刻の男子バスケットボールbjリーグ(当時)仙台の本拠地戦だった。スポーツ部の外勤記者は総出で野球取材。「野球に回るバスケ担当の代わりだ」と言われ、いかにも不満そうな筆者を見かねたのだろう。人望のある内勤の先輩が「俺も手伝う」と同行してくれた。

 会場はもちろん他社不在。結果は仙台が力負けで泥沼の連敗。先輩と2人で「何を書くか」と悩んだ。そこに汗だくのまま現れた志村雄彦主将。いきなり切り出した。

 「日本中が楽天に注目している日なのに、わざわざ自分たちのために2人もお越し頂き、本当にありがとうございます。せめて勝利をお見せしたかったのですが、申し訳ありません。あしたこそ勝ちます。懲りずに取材に来てください」

 2人とも圧倒されて「は、はい」。「こんな日のバスケ記事なんて読む人いるのか」とやる気のなかった自分が恥ずかしくなった。

 彼は疲労困憊(こんぱい)。負けて悔しいはずだろうに、直角に腰を折り、深々と頭を下げ、初めて会うおじさん2人をおもんぱかった。「神対応」が自然にできてしまう姿に「地元みんなに応援してほしい」とチームの先頭に立つ使命感が漂った。

東北楽天-ソフトバンク CS初戦、最後の打者を打ち取り雄叫びを上げる岩隈=2009年10月16日、Kスタ宮城(当時)

 「かがみになれ」。野村監督が中心選手たちに願ったように、組織に尽くす模範生の一面とはこういうものなのだろう。田中が神格化されるであろう日に、ふと岩隈久志投手を思った。監督は期待の裏返しから初代エースに異常に厳しかった。

 「チームよりも我が身優先。岩隈は近鉄のあしき伝統を引き継いでいる」。東北楽天の前身、近鉄を例にぼやいた。

 野村監督が現役時代の1970年代後半、近鉄は阪急(現オリックス)と優勝争いのさなかだった。エース鈴木啓示の救援起用を切り札に勝ちたい試合、マウンドにその左腕は現れなかった。確かに前戦で先発完投した。だが大車輪の働きでチームの勝敗を背負うのが当時のエース像。

 不思議に思った野村さんは西本幸雄監督に聞いた。「一番信頼できる投手をなぜ投げさせないのですか?」。監督は「本人が嫌だと言うんだ」。鈴木にも聞くと、返答にノムさんは絶句した。「無理をしてけがでもしたら誰が責任を取ってくれるんですか」

 個人主義の投手を伝える逸話の最後、野村監督は決まって断じた。「それが弱小球団のエース。だから近鉄は一度も日本一になれなかった。うちも岩隈が近鉄出身で、似たような調子。だから強くならない」と。

 野村監督は「マウンドを守り通すのがエース」と信じた。完投を期待する展開で「そろそろ球数が…」と降板を願う岩隈が物足りなかった。ひじや肩の状態に敏感な様子を「ガラスのエース」と頻繁にやゆした。

 岩隈は22歳の03年から2年連続15勝。出世が早かった。球界再編騒動の04年末、おとこ気を見せて、近鉄と合併したオリックス入りを拒み、東北に来た。

 しかし東北楽天では苦境続きだった。

 97敗とどん底にあえいだ05年、唯一勝利を見込める若きエースとして最多の9勝を挙げた。しかし孤軍奮闘が右腕をむしばんでいた。06年1勝。高卒新人田中が台頭して最下位脱出した07年は5勝。存在は陰に隠れていった。「何だ、今の自分は」とふがいなさが募り、「悪いものを全部取り出す」と秋に右肘の遊離軟骨除去手術を受ける。

 この冬の契約更改会見。それまでどこか浮き沈みがあり、記者を避ける雰囲気があった岩隈が「まだリハビリ中の今、何を言ってるんだと思われるでしょうが…」と不意に心を開いた。

 「来年の北京五輪、自分にまだ代表入りのチャンスありますかね?」

 銅メダルに終わった04年アテネ五輪の雪辱を果たすべく、08年北京五輪出場を狙った。結局願いはかなわなかったが、同年もう一つの目標、背番号と同じ21勝を挙げる。病み上がりでイニングや球数に制限がある中、1年間、中6日間隔の先発登板を守り通した。

 野村監督のぼやきも激励と解釈できるようになっていた。「するべき時には完投する。何より1年間働き、勝利に導いてこそエース」。内なる反論を胸に黙々と背中で引っ張った。

 09年ワールド・ベースボール・クラシックでは決勝戦で好投。事実上エースとして日本の2連覇に貢献する。MVPに輝いた松坂大輔投手が「MVPは岩隈君と思う」と言う活躍で。

 頂点に立ち、歓喜の渦にいる経験をして、岩隈はもう一回り成長する。

 秋、クライマックスシリーズ(CS)第1ステージを勝ち抜いたセレモニーでのあいさつ。冷静な岩隈らしからぬ興奮した口ぶりで日本シリーズ制覇を宣誓した。

 「てっぺん目指すの本気ですから!」

 日本ハムとの第2ステージ。もう負けられない第4戦も劣勢の展開だった。2点を追う八回のピンチ、ここをしのいだ流れを最後の反撃につなげるべく、野村監督は勝負手を打つ。

 「ピッチャー、岩隈」。岩隈は第2戦に125球完投負けした。それでも中1日登板を覚悟し、田中とともにブルペン待機していた。たとえ打たれたとしても、エースが幕引きすべき場面。その思いは見ている者にも伝わった。

 最後はスレッジにとどめの3ラン被弾。初の日本シリーズ進出は夢と消えた。

 試合後の記者会見場、岩隈は無念の涙を流し続けた。それを見た野村監督は「慣れないことをさせた。いつでも投げると言ってくれてありがたかった」と感謝した。岩隈が「かがみ」になったと感じたように。

 それから4年後。

 11月3日の第7戦。3点リードの九回、星野仙一監督が主審に投手交代を告げる。「田中や!」。前日にまさかの160球完投負けした田中が、昭和のエースのような救援登板をする。全てを託されて。

 間もなく歓喜の瞬間が訪れる。21番の背中を追い、頂点に立った18番の勇姿に、エースの血脈を感じた。

 後日談。筆者は11月3日は本社で留守番でした。約束通り勝って連敗脱出したのに取材に行けず、志村さん、申し訳ありませんでした。引退後、社長としてチームをけん引する姿を応援しています。

 筆者ツイッター始めました。「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」です。ご感想、フォローなどよろしくお願いいたします。(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

河北新報のメルマガ登録はこちら

企画特集

先頭に戻る