<今こそノムさんの教え(27)>「言いたいこと、ないのかな?」

 今回の語録は「言いたいこと、ないのかな?」。2カ月前、コーナーPRのため、正直、仕方なくツイッターを始めた。今更流行を追うような感じがしたし、ストレスになる反応が多いとも思った。でもそれは先入観だった。いざ始めると、すごく背中を押される。

 前々回「かがみになれ」で、東北楽天が初の日本一達成しそうな8年前の11月、プロバスケットボールbjリーグ(当時)仙台の試合取材に訪れた筆者に、志村雄彦主将(現社長)がした「神対応」をつづった。筆者の意識の低さが指摘されるかと思ったら、ツイッターに「涙が出た」という感想をいただき、何度も励まされた。ほかに「涙腺崩壊しそうになった」と添え、第5回「上り坂、下り坂、まさか」を周知してくださる人も。ほかにも紹介しきれないほど例がある。

 拙文が心に届いたことが最上の喜びです。ツイッターを通じて交流の輪を広げたいとも思います。お読みいただく皆さんへの御礼が筆者の「言いたいこと」。

東北楽天-ソフトバンク 8回東北楽天1死一、三塁、中村紀の三振の判定で主審に激しく抗議する野村監督(左)=2009年4月9日、Kスタ宮城(当時)

 「言いたいこと、ないのかな? 本当にさあ。ちゃんと考えているのかって思っちゃうよ」。東北楽天ベンチ、野村監督は前日に若い選手をしかった場面を振り返り、ため息を漏らした。何を指摘しても「はい」以外は無言を貫かれ、拍子抜けしたという。監督はそんな反応の人を「無言会」と呼んだ。「あーあ、新メンバー登場」とも嘆いた。

 監督は試合中、疑問に感じたプレーをした選手を「根拠は何だ」と追及し始めると、止まらなかった。弁解の余地がないほど空気は一方的。上下関係を重んじるまじめな選手ほど黙り込んだ。相手は名将にして元名選手、雲の上の存在だ。首脳陣にも会議で持論を言えないコーチはいた。

 筆者も監督の逆鱗に触れた経験(第12回「信なくば立たず」参照)がある。「無理です。相当な勇気が要りますよ」。冒頭の一言にこう意見したくなったが、やはり何か怖かった。

 ただ監督も直接叱ること自体に疑問を持っていた。だからこそ試合後の会見で、個人の感情表現としてぼやいた。要点をまとめた新聞記事を介して、選手に気付きを与えようとした。

 それにしてもだ。一匹おおかみ的な半生を過ごし、寂しがり屋なのに、なぜイエスマンばかりを望まなかったか? 反論が理想へと近づく建設的な歩みになり得ると考えたから。

 「『人間、3人の友を持て』と言う。原理原則を教えてくれる人。師と仰ぐ人。そして、直言してくれる人。だから俺は捨て身の覚悟で言ったんだ」。次に紹介する逸話を筆者は野村監督から何度も聞かされた。それだけ意義が大きかったと思ったのだろう。

 1990年代にヤクルトを3度の日本一に導いた手腕を買われ、暗黒期の阪神監督になって2季目。外国人頼みのチームは最下位に終わりそうな雲行きだった。野村監督は2000年夏、久万俊二郎オーナーに球団改革を直談判した。

 「阪神が強くならない理由は、オーナー、あなたにあります。組織はリーダーの力量以上に大きくならないからです」

 遠慮なく問題提起した。

 「現場の監督を代えさえすれば優勝できると思っていませんか? それは精神野球の時代で終わりました。阪神にはエースや4番がいません。それは育てるものではありません、連れてくるものです。過去に阪神で育ったのも掛布雅之くらいでしょう。なぜ金を出して力のある選手を獲得しないのですか」

 「脇役ばかり」と前任監督が言ったチームを引き継いだ。球団の後押しがあったヤクルトから来た野村監督には、阪神の戦力不足の原因が補強費を惜しむ体質にあると見えた。当時は有望新人選手が入団先を希望できる制度があった。フリーエージェント交渉でバリバリの選手を誘う選択肢も。巨人が資金力と人気に物を言わせた時代、阪神は獲得競争を避けてきた。

 久万「君は巨人のやり方が正しいというのか!」

 野村「正しいですよ!」

 2時間以上の熱論の後、久万オーナーは認めた。「君の言うことはいちいち腹が立つ。でも正しいな」

 直言で阪神は変わる。次の星野仙一監督の下、金本知憲外野手らを大型補強した2003年、18年ぶりのリーグ制覇を果たす。

 逆もあった。野村監督に「直言」する猛者がいた。言葉ではなく、体を張ったプレーによる訴えだったが。いわゆる指示の無視。

 野村ヤクルトが悲願の王座に就いた1993年日本シリーズ。第4戦で中堅手飯田哲也が見せたバックホームは伝説になっている。

 1―0の八回2死一、二塁、西武の打者は主軸の鈴木健。野村監督は外野に「下がれ」と指示した。同点打は仕方ないとしても、逆転だけは避けようという陣形。しかし飯田は独断で逆を行く。前進して守った。「ホームへ強風が吹いている。頭を越されはしない」

 予想的中。鈴木の打球は飯田の前への短打だ。飯田からの好返球を受け、古田敦也捕手が二走を本塁でタッチアウト。見事勝利し、日本一へ王手をかけた。

 第7戦、2―1の八回1死三塁からダメ押し点を奪った場面(第13回「覚悟に勝る決断なし」参照)も同様。内野ゴロで猛然とスタートして本塁生還したのは、三走古田の独断だった。

 野村監督は指示系統に厳格。しかしより確率高く結果を導けるのであれば、選手の現場感覚を尊重した。だから怒らなかった。勝利に直結した飯田、古田のプレーも「成長した姿を見せてくれた」と歓迎した。

 「直言」を許す野村監督の寛容さは、時代の先駆けだったのかもしれない。

 言いたい事も言えないこんな世の中じゃ POISON―。90年代はこんな歌詞の付いた曲がヒットするほど、就職氷河期で若者が鬱屈(うっくつ)していた。その頃の新社会人は「ほうれんそう(報告、連絡、相談)」をたたき込まれ、上下関係を意識した。

 それが今は職場を円滑にする行動原則に「おひたし」があるらしい。「怒らない」「否定しない」「助ける」「指示する」の一文字を取る。時代は変わった。氷河期組の筆者も周囲の「言いたいこと」へ感度を上げていこうか。また時代遅れにならないように。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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