<今こそノムさんの教え(31)>「人には添うてみよ」

 例えば年賀状、面倒だから干支(えと)だけ新しくしてほかはコピーアンドペーストで終わらせたとき。日常生活でも慣習を安易に受け入れたときとか、何となく同調圧力に従ったとき。後悔したことありませんか? 途中で本来の意味を忘れ、思考停止した自分を。筆者は11日の「野村克也さんをしのぶ会」で、それを思いました。単純に「通例」に従わず、思慮ある弔いをしている人を見て。

形見分けのジャケットを着て、野村さんの思い出を語る日本ハム・新庄監督=11日、神宮球場

 東京・明治神宮野球場の参列者受け付け。約600人いる四方を見回しても、ほぼ黒一色の服装だった。それはそうだ。亡くなってから約2年。葬儀でないにしても、故人へ思いをはせる集いだ。自分も当然、全身真っ黒で立っていた。

 球場正面に車で乗り付けた男性が一人。さっそうと現れるやいなや周囲がざわつく。野球関係者と言うより芸能人風の整った面立ち。いつも上機嫌の彼は見るからにスターのオーラが漂う。でも厳粛な場に、チェックのグレージャケットはちょっとどうなのか。「さすがに少し浮いているでしょ」と思ってしまった。

 その男性は祭壇に献花する際も、とっぴな行動をした。野村さんの遺影を前にしてそっと白い花を置く人たちをよそに、一人だけひょいっと投げ付けた。「根っからの目立ちたがり屋」「宇宙人」「代表的なアホ」とかつて野村さんは評した。「今目立つ必要あるのか」とまた思った。

 その人は「ビッグボス」こと日本ハム新監督の新庄剛志さん(49)。1999年から2年間、野村阪神で過ごした。投手挑戦や4番希望を許されるなど、引き立ててもらった教え子。閉会後、テレビカメラの前でニコニコ笑って話す姿に、一連の疑問を感じた自分が愚かに思えた。

 新庄さんは生前言われていた。「お前だけは俺がこの世を去っても笑顔で見送ってくれ」。元気よく「分かりました」と答えていた。だから実際に「約束を守った」と明かした。

 くだんのジャケットは野村さんの形見分けだった。新庄さんがかつて「いいですよ」と勧め、野村さんも好んだイタリアの高級ブランド「ベルサーチ」製だ。

 遺族に頼み込んでジャケットを譲り受け、5万円以上かけて新庄さんのサイズに仕立て直した。クリーニングにはあえて出さなかった。中華料理を食べこぼした襟元の染みと共に「野村さんの臭いも残る」。

 「この会で着たくて、着たくて。きっと『なんやお前、かっこいい服を着とるやないか。でもそれ、見覚えあるな』と言っていると思う」。新庄さんは恩師の声まねとともに明かした。

 献花は投手になったつもりだった。「二刀流をやっていたから、捕手だった野村さんに受けてもらいたかった」。時空を越えて野村さんとバッテリーを組んだ気分で振る舞った。

 そもそも二人は気脈を通じていた。

 野村さんは南海での選手時代、監督一派ではなく疎外感を胸に過ごしてきた。だから自分が監督になった時、同じ思いをさせないために、選手やコーチ陣とグラウンド外での個別の付き合いを極力避けた。

 しかしわずかな例外が新庄さんだった。東京・赤坂などによく一緒に買い物に出掛けた。野村さんの口から出たと周囲には信じられないほどの言葉で、新庄さんはいとおしがられたという。

 「憎らしいくらい、お前はかわいいな」

 だからしのぶ会では、新庄さん流のやり方で愛情表現した。寂しがり屋の野村さんがどうしたら明るくなるかも考え抜いたのだろう。実に相手本位の弔いだ。

 日本ハム選手時代以降、新庄さんのパフォーマンス的言動がなぜ支持されるのか。目の前で謎が解けた気がした。

 新庄さんは、どうすれば自分がそつなく振る舞えるかという「通念」にとらわれていない。そして野村さんから教わった「ファンがあってのプロ野球」という客本位の原点を今、再び胸に刻んでいるという。

 確かに型破りでウケ狙い的な言動をする。しかし受け手への思いが見た目以上に深いからこそ、ファンは支持するのだろう。野村さんと同じような抜群のサービス精神を感じるし、恩師以上に天才的だ。

 「阪神再建にはまず新庄をどうにかしないといけなかった」。振り返れば野村さんは意識して新庄さんに波長を合わせた節がある。

 ここでようやく今回の語録「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」。乗らないとどんな馬か分からないのと同じく、人の良しあしも寄り添わないと分からない、という意味。東北楽天監督在任時、新庄さんの思い出話をする時に、この言葉を引用した。

 一方の新庄さん。「野村さんはプロ野球のお父さんでした。ほとんど野球の指導を受けていない」「僕みたいなぺーぺーの言うことを聞いてくれた素晴らしさには感謝しかない」。カメラの前でこう語ったほかに、意味深な言葉を残した。

 「人間的に成長しなさい、というのを僕も若造ながら野村さんに教えたつもりです」「納得させる僕の話術もすごいと思う」。もはやどちらが上手だったのかも分からない、さすがビッグボス。

 後年、東北楽天監督として、いかにも優しいおじいちゃんのような雰囲気で田中将大投手らに接したのも、新庄さんとの関係で目覚めた何かがあったからかもしれない。

     ◇     ◇
 新庄さんが阪神時代の野村さんとの掛け合いを寸劇風に振り返ってくれました。せっかくなので紹介します。

 (1)1999年、野村阪神の春季キャンプ初日、ミーティングが1時間半~2時間と長いうわさを聞いていた新庄さんは、監督室のドアをノックする。

 新庄「初めまして、新庄です。お願いがあります。人間の集中力は学校の授業と一緒で45分しか持ちません。だからミーティングを45分にしてください」

 野村「そうか、確かにな。じゃあ5分延ばして、50分にしていいか」

 (2)別の日、ミーティングで言ったことを忘れ、同じ説明を繰り返す野村監督に新庄さんがくぎを刺す。

 新庄「3回は言い過ぎでしょう。今度から2回言い出したら、僕が止めますから」

 新庄「ほら、監督2回目です」

 野村「ああ、2回言ってしもたわ」

 (3)2000年、野村さんは新庄さんの起用法に悩み、本人に問い掛ける。

 野村「お前何番打たせたらやる気出してくれるんや」

 新庄「そりゃ4番でしょう」

 野村さんはこのシーズン年間通して新庄さんを4番起用。いずれも生涯最高の打率2割7分8厘、28本塁打、85打点を残し、花開く。新庄さんはそのオフ、大リーグに雄飛する。「あれがなかったらメジャーからスカウトされていない。本当に感謝です」と語った。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当、ツイッターのアカウント名は「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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