<今こそノムさんの教え(33)>「限界を感じてからが本当の戦い」

 大学入学共通テストが始まり、受験シーズンも本番だ。筆者はこの時期は今でも嫌な夢を見る。第1志望の傾向と対策が全然できていない、とか。確かに直前期は取りこぼしがないように暗記ものの確認ばかりしていた。だから学力が伸びた感触がなかった。今回のテーマは壁を破る方法。語録は「限界を感じてからが本当の戦い」。受験生の皆さん、諦めたらそこで試験終了ですよ。

監督通算1500勝を飾り、完投勝ちした田中(右)からウイニングボールを受け取る野村監督=2009年4月29日、Kスタ宮城(当時)

 「じゃあ、今から南海電車に飛び込んで死にます」

 念願かない、プロ野球選手になって1年。野村克也さんは南海(現ソフトバンク)からいきなり解雇通告された。まだ19歳。必死に泣きついた(第10回「心が変われば人生が変わる」参照)。「給料はいりません。もう1年いさせてください」

 何とか首がつながった。危機感を忘れずがむしゃらに練習した。「生き残れるかは1日24時間の使い方次第」。砂を詰めた一升瓶がダンベル代わり。それで筋力強化した。先輩たちに夜の街への誘いを受けても断った。見送りながら念じた。「しっかり飲んで、体調崩して帰ってらっしゃい」

 ひたすら素振りを続けた。2軍で台頭した頃、2軍監督が言った。「これはすごいマメだ。みんな野村を見てみろ。これがプロの手だ」。努力を褒められ、野村さんは誇らしかった。

 3年目の1956年春、1軍のハワイキャンプに抜てきされた。正捕手がけが、控えの面々も夜遊びがたたって信用を損ねた。千載一遇の好機、野村さんは1軍への足掛かりを築く。翌4年目に初めて3割を記録。同時に30本で初の本塁打のタイトルを獲得した。

 「これでプロで生きていける」。手応えをつかんですぐ、壁にぶつかる。その後2年、打率2割台中盤に低迷した。慢心したわけではなかったのに。

 原因は自覚していた。変化球打ちだ。速球待ちで緩いカーブが来ると我慢しきれなかった。バットが空を切った。緩急に応じて瞬時に対応できる天才型でなかったから。観客からはヤジも浴びた。「カーブの打てないノ・ム・ラ」。鶴岡一人監督に教えを請うた。返答は「ボールをよく見てスコンと打てばええんや」。指導も精神論が主流だった戦後だ。

 ここが超一流への分岐点。多くの人は再び愚直に手のひらにマメを作り続けるだろう。しかし野村さんは今までの努力の先に成長があるとは思えなかった。発想から変えた。

 1冊の本と運命的に出会う。大リーグで最後の4割打者と言われるテッド・ウイリアムズの著書だ。投球時、球種によって投げ方に小さな変化があると紹介していた。「事前に球種が分かればカーブだって打てる。投手の癖を探そう」。ヤマ勘に頼る打撃が悪とされた時代、野村さんは恥を忍んで狙い打ちを磨く。当てずっぽうでなく、根拠ある読みの精度を高めて。

 誰もしていなかった情報収集の手法を取った。16ミリフィルムで対戦投手を録画。時にはすり切れるほど見返して、癖を探した。「神様、仏様…」と言われたライバル、西鉄の稲尾和久にもこれで対抗した。60年以降、8年連続で本塁打のタイトルを獲得。野村さんは球界を代表する選手になった。

 従来の常識にとらわれず取り組むべき課題を見定め、集中的に努力した末のカーブ攻略。まさに「考える野球」の原点だ。目的意識のはっきりした努力を積み重ねれば、才能ある強者にも勝機を見いだせる。この手法を後の野村さんは「弱者の戦術」と呼ぶ。

 ここで今回の語録「技術的限界を感じてからが本当の戦い」。限界突破には挑戦心とともに、打開策を探る直感力、観察力、発想力も必要という教えだ。指導者としては、緩急が飛躍の鍵を握ると示し、変化球習得を促した。代表例がヤクルト時代の高津臣吾投手(現ヤクルト監督)。

 「お前、あのシンカーを何とか盗めないか」。92年秋のキャンプ、野村監督は高津に提案した。直前の日本シリーズで苦しめられた西武の潮崎哲也投手が得意とする変化球の習得だ。右横手からカーブのように一度ふわっと浮き上がる。かと思うと直後、右打者に対して差し込みながら落ちていく。漫画の魔球のような軌道で恐れられた。

 野村監督は大まじめに言った。「150キロの真っすぐを投げる腕の振りで100キロの緩い球を投げれば相手は打ちあぐねる」

 言うはやすく行うは難し。高津は「半信半疑で」取り組み始める。それまで「速球で空振りが取りたい。速い球がないとプロでは通用しない」と思っていた。見事に「まるっきり反対のこと」と驚かされた。

 大卒2年目を終え1軍生き残りを懸ける立場。必死だった。うまく指の間からボールを抜くようにして投げる技術を磨いた。その末に希少性あるスローシンカーを習得。「絶対必要な武器になった」。翌93年抑え投手に定着すると、秋には西武に雪辱を果たして日本一達成する。栄光の瞬間のマウンドにも立った。

 ヤクルト黄金時代を象徴する守護神になった。国内通算で歴代2位286セーブにまで上り詰めた。大リーグにも羽ばたいた。「野村監督の一言が人生を大きく変えた」。今でも高津は感謝する。

 「高津の成功例がある。挑戦してみたらどうだ」。野村監督は東北楽天時代もサイドスローの選手によくスローシンカーを勧めた。2008年の日本シリーズ、当時西武の岸孝之がMVPに輝いた時も同じ。昭和の大投手のような大きく緩いカーブが脚光を浴びた。カーブに思い出がある野村監督は若手先発陣に言った。「岸の投げ方を盗んでみたらどうだ。速球と同じ腕の振りでカーブを投げたら打たれない」

 だが言葉に従って緩い変化球で名手が現れたかというと…。技術的難度が高かったか、筆者は当時「高津さんだからできた」という声も聞いた。監督は「満足、妥協、限定はいけない」と戒めてもいたが。

 「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」。旧海軍・山本五十六連合艦隊司令長官の言葉を引用し、野村監督は壁を破らせる難しさをぼやいた。指導者が目的地を明示しても「正しい努力」を重ねるかは、やはり本人次第なのだ。

(一関支局・金野正之=元東北楽天担当、ツイッターのアカウント名は「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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