<今こそノムさんの教え(10)>「心が変われば人生が変わる」

 球児たちの夏が真っ盛りだ。次の言葉を行動目標にしている高校は多い。「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる」。もちろん、大人だって心のありようによって未来は変わりうる。端的に表現した「心が変われば人生が変わる」が今回の野村語録。

 「野茂が入団するかも。話が持ち込まれていて…」

 2008年5月、東北楽天の球団幹部が雑談中に小声で言った。あの野茂英雄投手。日本人大リーガーの先駆者的存在、国民的ヒーローだ。直前に大リーグ・ロイヤルズを戦力外になった。実現すれば大ニュースだ。「東北楽天・野茂誕生か」。見出しをイメージして記事を準備した。しかし、いろいろあって踏ん切りがつかず。数日後、スポーツ紙が1面にドーンと特報してきて、泡を食った。

 最終的に入団に至らなかった。「実力的にはもう厳しい」と野村監督が受け入れなかった。そもそも、大リーグ挑戦者の国内復帰を嫌った。野茂はけが明けで、全盛期を過ぎていた。結局、2カ月後に引退を表明した。

 「野村再生工場」。他球団をお払い箱になった選手を再び輝かせた野村監督の代名詞だ。評判は高く、あまたの元一流選手が多く工場を頼って来た。だが、なかなか幸せな結末にならなかった。野村工場長はぼやいた。「野村なら何とかしてくれるはず、と思って来る依頼心のある人間は無理」

 万人に効く再生魔法などない。ただ、過去の成功例には共通点があった。「今度こそクビにならないように『変わろう』と覚悟できているかどうかだ。そうでないと俺が何を言っても響かない」。これは、経験者だから言えるせりふだった。

2シーズン制の実施1年目、阪急とのプレーオフを制し、選手やファンに胴上げされる南海の野村監督=1973年10月24日

 「じゃあ、今から南海電車に飛び込んで死にます」

 野村さんは19歳で解雇を伝えられ、必死に泣き付いた。高校を出て、南海(現ソフトバンク)に入団。今の育成選手のようなテスト生で、「カベ」と呼ばれるブルペン捕手もこなして1年間過ごした時だった。

 「わがまち初のプロ野球選手」と盛大に見送られて京都の古里を出てきた。たった1年で帰れるわけがなかった。母子家庭で育ててくれた母親を楽にするはずだったのに、これでは悲しませるのは明らかだ。「給料がなくてもいい。もう1年居させてください」。しつこく食い下がると、球団が仕方なく折れてくれた。

 命拾いをすぐに忘れて安穏とする凡人なら、野村さんが名選手、名監督として後世に名を残すことはなかっただろう。だが、違った。

 心を入れ替えた。「このままでは、また来年同じ憂き目を見る。1日24時間は皆同じ。そこで何をすればライバルに勝てるのか」。捕手として生き残るために弱肩の改善が必須と気付く。

 練習の虫になった。「肩を壊すから重い物を持ってはいけない」と言われた時代、しょうゆの一升瓶に砂を詰めてダンベル代わりに筋力強化した。遠投にも取り組んだ。すると2年目、2軍で全試合出場。3年目には1軍で正捕手の座をつかむ。「1軍に上がった選手などいない」と言われた「カベ」としては、異例の大出世だった。

 「心が変われば人生が変わる」。体現してきたからこそ、東北楽天監督になってからも12球団合同トライアウトで、戦力外の憂き目を見た選手たちの内面まで探り見ようとした。

 「功なき者を集めよ」の信念もあった。実績ある選手は成功した時のスタイルに執着し、苦しみがちだ。投手なら衰える前の球速を忘れられないきらいもある。対して表舞台に縁がなかった「功なき者」には、何とか自分の生きる道を模索し、はい上がろうと必死な者もいる。東北楽天での最たる成功例が、救援投手として活躍した川岸強だった。

日本ハム戦で代打を内野ゴロに打ち取り、ガッツポーズする東北楽天6番手の川岸=2009年4月6日、札幌ドーム

 川岸は06年オフ、3年間で35試合登板に終わった中日を戦力外になった。ちょうど交際相手と結婚の秒読み段階だった。望みを託したトライアウト受験後、東北楽天から救いの一報が来た。「これ以上ないくらいひたすら泣いて感謝した。家族と自分のためにこれから必死で頑張る」

 東北楽天2年目の08年、54試合4勝3敗3セーブ17ホールドポイント、防御率1・94と花開く。10年には球宴にも出場。12年まで6年間、息長く153試合に投げた。

 「とにかく強気。当たって砕けろ、と打者に向かっていく火の玉小僧」。野村監督はマウンド度胸を特に気に入った。持ち味をより生かすため、打者の内角を攻める変化球習得を指示する。川岸は左打者の胸元を突くカットボールなどを身に付けて応え、一時は抑えを任されるまでになった。

 お忘れの方もいるだろうが、川岸は入団1年目07年の本拠地開幕戦に先発した。開始直前に不調を訴えたエース岩隈久志の代役だった。結果は序盤に大量失点でKOされた。痛み止めでごまかしていた右腕の状態は、手術が必要なほど悪化。2軍落ちまでした。

 一難去ってまた一難。川岸はこの逆境に活路を切り開く。「手術すると言える立場ではない」と一生懸命に筋力強化に励んだ。その体が翌08年、中継ぎで台頭する下地となった。「ピンチもチャンスに変えられる」と信じて常に全力を尽くす熱血漢の姿を、野村監督が見逃すわけがなかった。

 そう言えば川岸が飛躍し始めたのと、野茂の入団話はちょうど同時期だった。あの後、あの球団幹部にあいさつ代わりに言われた。「何で書かないんだ。地元紙に載ればファンもその気になる。獲得の追い風になったのに。『ノム、野茂師弟コンビ』誕生の集客効果は大きかったはず」。正直、複雑な気持ちになった。

 これを思い出すと、野村監督が若手を鼓舞する時、節を付けて言った文句までもが頭に浮かぶ。「若い時に流さなかった汗は年老いて涙と変わる」。脂汗を流してでも報じる覚悟があれば、あの後どうなっていただろうか。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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