「あの日」をどう伝えれば… 若手記者、答えを探して被災地へ
東日本大震災の取材経験がほとんどない記者2人が2月中旬、発生から11年となる岩手県釜石市と宮城県南三陸町を訪ねた。当時、小学6年だった山老(ところ)美桜記者と、中学1年だった竹内明日香記者。震災を知らない世代が増える中、命を守る教訓を未来に残すため、あの日をどう伝えていけばいいのか-。釜石東中2年の時に小学生と共に避難した釜石市の語り部川崎杏樹(あき)さん(25)と、郷土文化を伝承する南三陸町の上山八幡宮の禰宜(ねぎ)工藤真弓さん(48)に会い、一緒に現場を歩いた。
震災語り部・川崎杏樹さん×山老記者 @岩手・釜石
子どもたちが歩いた避難経路をたどる
電話で被災地の話題に触れた時、地元東京の友人が言った。「3・11って20年くらい前な気がする」。関心の薄さより、興味を引き出せない自分がもどかしかった。
どうすれば災害を身近に感じてもらえるか。釜石市の伝承施設「いのちをつなぐ未来館」で働く同年代の川崎杏樹さんに案内を依頼し、震災時の避難経路をたどりながらヒントを探した。
「ちょうど体育館で部活をしているところでした」
海沿いにたたずむ釜石鵜住居復興スタジアムを見上げる。あの日、約570人がいた鵜住居小と釜石東中があった。面影はない。
大槌湾を背にして歩くと、生徒たちが最初に目指した介護施設「ございしょの里」に着いた。当時、避難所に指定されていた。
生徒はすぐに別の高台を目指す。住民が崖崩れの危険性を指摘したからだ。消防団の指示で逃げてきた鵜住居小の男児の手を引き、川崎さんは一緒に走った。
「大丈夫だよって声を掛けたけど、返事はありませんでした。怖かったんだと思います」
介護福祉施設「やまざきデイサービス」で足を止めると、川崎さんの表情はこわばった。
「黒々とした津波が街をのみ込みました。ぷかぷかと浮いた家がバキバキと音を立てて崩れ、潮と下水の混じった臭いがしました」
急坂を上り、恋の峠に着く。海と山に囲まれた町並みが見える。「空き地が目立つ北側は住宅密集地だったんです」。数少ない平地にあったはずの多くの命と暮らしを思った。
児童生徒の避難行動は一部だけが切り取られ、「釜石の奇跡」ともてはやされ、美談が独り歩きした。
「ずっと違和感がありました」
命を守れたのは、震災前に学んでいた体験型の防災教育の成果だ。多くの住民の手助けもあった。
ただ校外にいた児童生徒3人と校内に残った事務職員1人が犠牲に。ほど近い市鵜住居地区防災センターでは、市推計で162人が命を落とした。避難訓練にも使われていたため、大勢の人が逃げ込んだ。
「奇跡じゃない。事前の備え、地域の支え、助けられなかった多くの命。どれも確かにあったものです」
峠を後にし、高台に移った釜石東中の新校舎に向かう。長い階段は標高11メートル地点がオレンジ色に塗られている。地区を襲った津波高と同じだ。「ここより上へ」との願いが込められている。
「関心のない人に出会うたび、歯がゆいのですが…」。階段を上りきり、記者が抱えていたもやもやをぶつけると、意外な答えが返ってきた。
川崎さんは県外の大学に進学した。大阪出身の同級生から「震災の時、周りは『見たいドラマが見られなかった』と言っていた」と聞いた。初めて被災地外の視点に触れた。「逆の立場なら、きっと私もそう思う。仕方ないんじゃないかな」
あの時、電話口の記者を友人はどう感じただろう。震災を伝えなければと意気込みが空回りし、「知るべきだ」と上から目線で押し付けてはいなかったか。
「伝承って種まきかなって。芽がいつ出るか分からない。きっとそれぞれのタイミングがある」
友人と同じ目線に立てば、いつか届く言葉が見つかるかもしれない。記者1年目の私だって、学生時代に東北の被災地を訪れるまでは人ごとだったのだから。
伝承施設に戻る川崎さんの背中を追い掛けるように、階段を下りた。
<編集後記・山老記者>
あの日からの10年を出身地の東京で過ごした私には思いもよらぬ葛藤だった。
「もっとつらい被災経験をした人がいるのに、私なんかが語っていいのか」。自宅は津波で浸水したが、家族は無事だった。川崎さんは今でも迷う時がある。
「語れる人が語ればいい。そうじゃないと残っていかない」。いのちをつなぐ未来館で働き始めた2020年。夏に石巻市の旧大川小であった研修で児童遺族から聞いた言葉が、川崎さんの背中を押した。
当事者が抱えてきたあの日は重く、外から来た私に胸の内を伝えきれるか不安もある。でも「震災を知らない」を言い訳にしたくない。震災を学び、被災地の思いに応えられる記者になると心に決めた。
上山八幡宮禰宜・工藤真弓さん×竹内記者 @宮城・南三陸
津波の歴史あっての「町の文化」知る
震災がなければ訪れるはずだった。
仙台市内の中学1年だった11年前、2泊3日の野外学習に向け南三陸町について学んでいた。あの日を境に、中止された。
昨春記者になり、何度か被災地を訪ねた。目の前に広がるのは新しい街並みばかり。風景が一変する前、被災直後すら「自分には何も分からない」。震災に関する記事を目にするたび、歯がゆさを覚える。
どう震災を伝えていけばいいのだろう。南三陸町で生まれ育ち、幅広い震災伝承活動に取り組む工藤真弓さんを訪ねた。
「こちらは神様に供える餅の形。タイには大漁への祈りが込められています」
志津川地区の高台にある上山八幡宮の社務所で、真弓さんは三陸沿岸に伝わる切り紙「きりこ」を見せてくれた。宮司を務める夫の庄悦さん(50)とともに切り抜き、氏子に分ける。
町民の家の神棚には当たり前のようにある。でも、真弓さんが背景や込められた思いを語るようになったのは震災後だという。
1960年のチリ地震津波など何度も津波に襲われた町で、人々は海の恵みに支えられ、暮らし続けてきた。天災で何も食べられなくなっても、きりこに祈りをささげながら。
「津波の歴史があって町の文化がある。たった一枚の紙だけど、きりこには津波を乗り越えてきた力があるんですよ」
町が揺れたあの日。真弓さんは夫や当時4歳だった息子(15)らと高台の公園に避難した。見えてきたのは海岸から押し寄せる茶色い津波。恐怖を感じながら、志津川小につながる林道をひたすら走った。
夫に抱えられていた息子から後に聞いた。「『どうしてみんな走ってるんだろう』って思ってた」。わが子に津波のことを何も伝えていなかった。
12年5月に真弓さんが出版した「つなみのえほん」は、優しい絵と語りで自身の被災経験をつづっている。大人も子どもも外国人も親しめるように、との思いを一番に込めた。
「分かりやすさ」をずっと大事にしてきた。13年から町内の避難路にツバキを植樹する活動もその一つ。ツバキは根っこが強いから津波が来ても生き残る-。登米市の仮設住宅で近所のおばあさんに聞いた言葉がきっかけだ。命を守るヒントを誰もがシンプルに得られると感じた。
南三陸町では811人が死亡・行方不明になった。
「震災後は亡くなった人も含め、たくさんの人と生きている感覚になりました。見えない力に背中を押されながら、小さなことでもできる範囲で繰り返していく。それが供養にもなるし、自分の生きる意味にもなるかなと思っています」
地域文化や震災の教訓を未来に伝える強い思い。気負いなくやり遂げる真弓さんの姿が輝いて見えた。
最後に聞いてみた。「私は被災当時を知りません。そんな記者に大切にしてほしいことはあるでしょうか」。突然のリクエストに少し戸惑いながらも、真弓さんが丁寧に答えてくれた。
「まちの歴史は、地域に住む人や文化に刻まれています。震災で街並みが変わっていても、実際に行って純粋に自分の感じたことを大事にしてほしい」
何も分からない自分でも、見聞きしたことを一つずつ伝えていけばいいのかもしれない。11年前に行けなかった町で、真弓さんに出会えたこの日のことから。
<編集後記・竹内記者>
取材で印象に残ったエピソードがある。震災直後、町の大人は「古里は消えた。もう何もない」と悲嘆に暮れた。それを聞いた真弓さんの息子は「大人はばかだ」と怒ったという。「川に魚はいるし、山にはドングリがある。何もなくなってなんかない」
真弓さんは「ないものしか見ようとしない大人に対し、子どもはあるものを探そうとしていた」と振り返る。
私が南三陸を訪ねたのは、震災で行けなくなった町がずっと気になっていたからだ。でも、この取材まで足を運ばなかった。「行くはずだった町はもうない」という先入観にとらわれていたのかもしれない。
被災地の地元紙記者として、現場に足を運び、あるもの、失われたもの双方を伝え続けたい。
「震災報道若手記者PT」が始動
東日本大震災の発生から11年を迎えます。悲しみを繰り返さないために今、何ができるのか。そんな問い掛けを胸に、震災後に入社した若手記者が昨年12月、「震災報道若手記者プロジェクトチーム(PT)」を始動させました。チーム初となる本特集は、取材からレイアウトまで若手が担当しました。
若手ならではの視点で記事や連載を展開し、読者の皆さんと共に震災伝承を考えます。オンラインでも積極的に発信し、風化防止や災害への備えを呼び掛けます。
タイトルカット「since2011」は、災厄から身を守るお守りがモチーフ。結び目に「あの日と今」「読者と記者」をつなぐ決意を込めています。9日の特集第2弾では、震災翌日の河北新報朝刊がどのようにできたか紹介します。
今回の特集は報道部山老美桜(23)、竹内明日香(24)、岩田裕貴(29)、柴崎吉敬(29)、高橋一樹(30)、盛岡総局横川琴実(30)、福島総局佐々木薫子(26)、写真映像部藤井かをり(29)、整理部藤井宏匡(33)、八木高寛(34)、コンテンツセンター藤沢和久(33)が担当しました。
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東日本大震災の発生から13年。あの日を知らない若い世代が増える中で、命を守る教訓を伝え継ぐために何ができるのか。震災後に河北新報社に入社した記者たちが、読者や被災地の皆さんと一緒に考え、発信していきます。