理想郷へ政宗の思い込める 地名「仙台」の由来は?

仙台城跡に立つ伊達政宗公の騎馬像。城下の発展を今も見守る=2020年5月

 進学や就職、転勤で新たなスタートを切る4月はもうすぐ。仙台市に引っ越して新生活を送る方も多いことだろう。そんな新仙台人に「せんだい」の豆知識をお届けする。今回は仙台市民でも知っているようで知らない「仙台」の名前の由来。歴史からひもといてみた。(編集局コンテンツセンター・佐藤琢磨)

「仙臺初見五城楼」を引用

 杜の都「仙台」の名付け親は、仙台藩祖「独眼竜」こと伊達政宗公というのが定説だ。江戸時代に編集された仙台藩の正史「伊達治家記録(だてじかきろく)」は、慶長5年(1600年)12月に政宗公が豪族国分氏の城で現在の青葉山にあった千代(せんだい)城跡に新たな居城の普請に着手し、「仙臺(だい)」城に改称したと記す。

 市博物館学芸員の菅原美咲さん(37)は「現存する資料では、慶長6年に書いた政宗公の書状で初めて仙臺という名称が確認できる。書状の日付、4月18日までには改められていた」と言う。戦後に常用漢字を当て「仙台」となった。

 「仙臺」は中国の詩人が詠んだ「同題仙遊観(同じく仙遊観に題す)」という七言律詩の冒頭「仙臺初見五城楼(仙臺初めて見る五城楼)」から引用したと見られている。仙臺とは「仙人が住むような素晴らしい理想の高台」という意味。政宗公の師、虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚も同じ歌を詠んでおり、「教養のあった政宗公も知っていたはず」と菅原さんは言う。

「独眼竜」で有名な戦国大名にして仙台藩初代藩主の伊達政宗公=14日、仙台市青葉区の市博物館

平和の願い込められた「千体」

 政宗公の統治前に使われていた地名「千代」は「千体(せんたい)」が始まり。青葉山一帯は奥州藤原氏が栄えた平安時代末期には、寺社の集う信仰の地だった。主塔とされた大満寺には1000体の観音像「千躰(体)仏」がまつられていたという。伊達治家記録では、まず千体の地名が付き、その後国分氏が千代に改めたとしている。

 由来となった千体仏は、青葉山から大満寺(太白区)や龍泉院(若林区)などに分けられたといわれている。「千体仏は病気や戦争がなくなってほしいという願いを込めて彫られた。それは、コロナウイルスやロシアのウクライナ侵攻などに苦しむ現代にも通じる」と大満寺住職の西山道環さん(46)。「せんたい」は平和への願いが込められた地名、と手を合わせる。

「仙台」の名前のルーツと言われる千体仏。虚空蔵堂の壁一面を埋め尽くす=1日、仙台市太白区の大満寺

擬宝珠に刻んだ「民安国泰」

 また、仙台は広瀬川と名取川に挟まれ、川に囲まれた土地を表す「川内」から「せんだい」の読み方になったという説も。川に囲まれた山手に川内という地名は多く、鹿児島県には薩摩川内(せんだい)市がある。言語学者の故金田一京助博士らが提唱したのはアイヌ語源説。「広い川」を意味する「セプナイ」が変化したのだと推察する。諸説あるものの、「川内説もアイヌ語源説も文献はなく、詳細なことは分からない。千体から変化した説が最も有力」と菅原さん。

 広瀬川に架かっていた旧大橋の欄干に付けられた擬宝珠(ぎぼし)には、「仙臺橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」と銘が刻まれた。1000年もの間(広瀬)川が流れているように、民も国も末永く安泰であれ―。「仙台を理想郷に、という政宗公の思いが伝わる」と目を細める。

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