井上ひさしさん「チェーホフ全集」に膨大メモ 喜劇論の原点か

 山形県川西町出身の作家、劇作家井上ひさしさん(1934~2010年)が生前、蔵書「チェーホフ全集」に書き入れた膨大なメモを調査する初の試みが進められている。主体は蔵書を保管する同町の遅筆堂文庫。演劇観と精細な分析が垣間見えるといい、研究員は「井上作品研究の最重要資料の一つ」と語る。

膨大な書き込みが残る「チェーホフ全集」

全18冊、読んだ時期と場所も

 全集は、ロシアの代表的劇作家チェーホフ(1860~1904年)の戯曲や小説をまとめた全18冊。井上さんが作中の表現を一つ一つ分析し、解釈を重ねた跡が残る。読んだ時期と場所も記されており、「(作並)(69・5)」と仙台市青葉区作並で1969年5月に書いたことを示す箇所もある。

 特にチェーホフの代表作「三人姉妹」が載った第12巻の該当部分約100ページには、全編にわたり詳細な書き込みが確認された。マーカーで強調した箇所も多く、作品から喜劇的な側面を読み取ろうとしたことがうかがえる。

 井上さんはチェーホフに加え、童話作家の宮沢賢治や英国の劇作家シェークスピアを好んだことでも知られる。ただ、両作家の著作を含む他の蔵書に同様の細かい書き込みは見当たらず、研究員の井上恒さん(61)は「このメモが彼の喜劇論の原点と呼べるのではないか」と指摘する。

 井上さんは晩年の2007年、チェーホフの生涯を描いた評伝劇「ロマンス」を発表。一般的に「暗い」と評されるチェーホフの作品を明るく前向きに捉え直す独特の解釈を披露した。愛読した全集が評伝劇に大きな影響を与えたことも、今回の調査で明らかになりつつある。

全18冊のチェーホフ全集。表題は井上さんが書いた

戦時期の生まれ、生き方重なる

 全集は井上さんが30代半ばから繰り返し読み、生涯を通じて手元に置いた。没後に神奈川県鎌倉市の自宅書斎から、関連蔵書約22万冊を収める遅筆堂文庫へ運び込まれた。整理中の蔵書や資料を確認する作業の一環で、昨年秋に書き込み内容の精査に着手した。

 チェーホフは井上さんと同様、ユーモア小説と戯曲を手掛けた。民族問題に揺れ、戦乱の地だったクリミア半島のヤルタで暮らしたり、生地に図書館を建てたりした。生き方は、戦時期の生まれで故郷に遅筆堂文庫を設けた井上さんと重なる点が多い。

 井上恒さんは「チェーホフは困難な時勢でもより良い未来のために『人間』を信じようとした。井上さんにとって人生の手本となるものがあったのだろう」と話した。

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