77年前の集団疎開の経緯明らかに 宮教大付属、加美・宮崎両小の学校日誌で判明

 1945年7月10日の仙台空襲の後、現在の宮城教育大付属小の児童が加美町宮崎小に集団疎開した詳しい経緯が、宮城学院女子大人間文化学科の大平聡教授による宮崎小の学校日誌の調査で明らかになった。2015年に確認した付属小の日誌と合わせ、子どもたちを守るために教諭が奔走した様子がたどれる。

宮崎小の山田校長(左)に、両校の学校日誌をパネルにして届けた大平教授(左から2人目)

 付属小は太平洋戦争中、宮城師範学校男子部付属国民学校だった。空襲後に教諭が児童の疎開先を探し、7月28日~8月31日、129人が宮崎小で学んだ。

 大平教授が今年5月に宮崎小で学校日誌を調べたところ、付属小教諭が仙台空襲から9日後の7月19日、集団疎開の打ち合わせをするため、宮崎小を訪問していたことが判明した。終戦の日や8月末のお別れ会の描写もあった。

 戦後の記述から、宮崎小で付属小教諭が模範授業を行い、感謝の意を示すとともに教育の復興へ歩み始めた様子がうかがえる。

 付属小の日誌には、7月末の両校の対面式で子どもたちが校歌と「海行かば」を合唱したことが記されている。大平教授は「両校の動きの点と点が結ばれた。農村でも食料事情が厳しい中、よく受け入れを決断した」と指摘する。

 くしくも大平教授が付属小で調査した当時、教頭として協力したのが宮崎小の山田佳哉校長だった。縁に驚きつつ「当時の児童は心細かったと思う。受け入れた宮崎の人々の温かさを感じたのでないか」と心情を思う。

付属小の学校日誌を持つ佐藤教頭。図書館に戦争と平和を考えるコーナーを設け、公開する

 付属小の佐藤拓郎教頭は学校日誌を活用し、授業で集団疎開の歴史を取り上げている。「先輩たちの話を子どもたちは身近に感じている。教師の苦労もしのばれ、宮崎の方々にも時を超えて感謝したい」と話す。

 大平教授とゼミの学生は両校の日誌をA3判大のパネル18枚にまとめ、今月1日それぞれに贈った。「ロシアのウクライナ侵攻が続くが、日本でも戦争があったことを子どもたちに知ってほしい。平和を維持する努力の大切さを考えてもらえれば」と大平教授は願う。付属小は31日まで、宮崎小は8月末日までパネルを展示する予定。

[仙台空襲]1945年7月10日未明、123機の米爆撃機B29が仙台市上空に飛来し、焼夷(しょうい)弾や高性能爆弾を投下。死者は1399人、負傷者は1683人に上った。

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