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トランスジェンダー男性の勝又栄政さんが「親子は生きづらい」刊行 苦しんだ10代からの日々を母との対話でつづる

著書「親子は生きづらい」の表紙。「『どこかの誰かが悩んで書いた本』じゃなく、私はちゃんといると伝えたい」と実名での出版を決めた

 仙台市出身の会社員、勝又栄政さん(31)=横浜市=が今月、トランスジェンダー男性(出生時の性は女性だが、性自認は男性)としての半生を記した著書「親子は生きづらい~〝トランスジェンダー〟をめぐる家族の物語~」を出版した。体と心の性の不一致に苦しんだ10代の日々や、手術と改名を経て男性として生きるようになった心情を、当初手術に反対していた母親(65)と自身が交互に振り返る独特の形式でつづっている。確執と歩み寄りを重ねて築いた「ハッピーエンドでもバッドでもない」親子の形とは―。(整理部・浦響子)

[かつまた・てるまさ]1991年、盛岡市生まれ。幼少期に仙台市に移り住み、小中高大と仙台で過ごす。22歳で乳房切除手術を受け、名前を「美穂」から「栄政」に改名。性別適合手術は受けていないため、戸籍上の性別は女性。現在は福祉関連会社で就労移行支援員、宮城教育大非常勤講師として働く傍ら、立命館大大学院先端総合学術研究科に在籍。「トランスジェンダーの子を持つ親の経験と背景」をテーマに研究活動をしている。

わがままな子

 「あんたが男なわけないでしょ!! もういい加減にしなさい!! あんたは本当に、誰よりもわがままな子だわ!!」

 母親の声が、身体中に響いた。親の気持ちを考えたから、ずっと言わずにここまで来た。こう言われたくなかったから、ずっと黙ってきた。男じゃないのぐらい、知ってる。わかってる。でも、違うの。

 好きで、こんな身体に生まれてきたんじゃない。好きで、こんな考えに生まれてきたんじゃない。僕だって〝普通〟が、良かった。

 こんな世界ならいっそ、産まないでほしかった。むしろ、あなたは、何のために僕を産んだの?
(勝又さん)

 天と地がさかさまになったような気持ちだった。とにかく、受け入れることはおろか、話を聞くことすら私にはできなかった。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。私にはわからなかった。一体、どこで、道を間違えたのか。私の人生の何がいけなかったのか。わからない。私の生き方の、どこが…。
(母親)=本書から

19歳で打ち明ける

 2011年6月、勝又さんは両親に「男性になるために手術をしたい」と初めて打ち明けた。当時19歳。大学2年生で就職活動を控え、「早くしないと男性として就職できない」との一心からだった。

 勝又さんにとって母親はずっと「理解のない親」として映っていた。小さい頃から女性らしさを求められ、外れた行動をすれば責められてきた。

 予想通り、返ってきたのは激しい拒絶だった。

 カミングアウト後、しばらくは一緒にいても沈黙が続いた。「手術のことなんだけど…」と切り出せば、罵倒の言葉で傷つけられた。「この人とは絶対相いれない」。それでも手術の許可をもらうため、粘り強く対話を続けた。

 半年、1年、1年半…。時間がたつに連れ、少しずつお互いの気持ちを伝え合うようになった。

幼少期の勝又さん。ピンクの服、キティちゃんなど、自分が選択したい方向じゃないものが与えられることに戸惑っていたという

違和感が嫌悪感に

 勝又さんは1991年、兄2人の下の長女「美穂」として誕生した。物心ついた時からスカートをはくのに抵抗があり、七五三でフリフリのドレスを着せられた時も「一刻も早く脱ぎたい」と話して店の人に「こんなお子さんは初めて」と驚かれた。

 10代になると、違和感が「女性らしさ」への嫌悪感と結びつき、第2次性徴で女性化していく体と心とのギャップに苦しむようになる。同時に、周りと違う自分を否定されることを恐れ、本音をひた隠しにするようになった。

 「『変な人』という目で見られるのがとにかく恐怖だった。体の違和感と同時に、社会からよくないものとして見られる絶望感。質の違う二つのつらさを同時に抱えて生きることがものすごく苦しかった」

 LGBTという言葉もまだなかった時代。自分が何者なのかと自問自答を繰り返し、「『普通』になれない自分は罪人なんだ」と自責の念にかられるたび、リストカットを繰り返した。

対話を通し印象変わる

 絶望の中に光が差し込んだのは19歳の時。友達に自分の状況を話しているうちに、「女性として生きるのがつらい」と思わずカミングアウトする形になった。

 「変じゃないよ。つらかったね」。友達から返ってきたのは意外な言葉だった。

 「分かってくれる人が世の中に一人でもいた。それまでの世界が覆されて、その先に未来が見えた」。男性として生きる選択肢を考えるようになり、手術のための病院探しを開始。一大決心し、家族へのカミングアウトを決意した。

 勝又さんの願いを「わがまま」となじった母親。この本は母親からの視点でも勝又さんの生い立ちが語られる。

 生まれる前から家族全員が女の子を待望し、出産直後に大喜びしたこと。父と母から一字ずつ取って美穂と名付けたこと。女の子らしい服装をさせると嫌がられ、不思議に思ったこと。男の子のような振る舞いが気になって「女の子らしくしなさい!」と口うるさく注意し、お互いに避けるようになっていったこと。

 「自分の理想を子どもに押し付ける人」だった母親の印象が、対話を通して少しずつ変わった。「母には母の理由があって、母なりに本気で私の幸せを願おうとしたんだ、と気付いた」

美穂から栄政へ

 誤解がゆっくりと理解に変わり、13年6月、終戦が訪れた。母親の許可を得て乳房切除手術を受け、同時に改名した。父と母の字を再び一字ずつ取って「栄政」。母親が名付けた。

 新たな名前と体で、22歳から男性としての「生き直し」を始めた勝又さん。息子として生きることを認めた母親。2人は和解したように見えるが、譲れないものもある。

 母親はいまだに勝又さんのことを「美穂」と呼ぶ。「(栄政は)呼び慣れていないから」という母親の気持ちを大事にしたい、と勝又さんは考えている。

 カミングアウトから10年。本の最後は、こう締めくくられている。

 逃げ続けていた頃から何年もかかって思うけれど、今は、自分の世界だけで生きるよりも、いろんな世界を知って生きた方がお得だな、というように感じるようになった。世界の何も知らないで生きるのはもったいない!と今は思うの。でも、逃げるのが親なのかとも思う。親の方も必死なのよ。
(母親)

 これだけたっても、お互い、全部が全部、理解したり納得できているわけじゃない。でもきっと、お互いらしい譲れ無さやこだわりを残しながら、これからも一緒に生きていくんだと思う。

 「違ったままで、でも共に」。これが僕ら親子の、10年の結論。
(勝又さん)

大学生の頃から書き続けている日記

実は社会の問題

 本は勝又さんが大学時代から続けている日記が基になっている。「自分がずっと感じてきた生きづらさの理由を知りたい」。そして、「親の抱える苦悩や背景にも目を向けて欲しい」。母子双方の目線で見られるようにと母親にも執筆を持ちかけ、対話形式にしたという。臨床心理学者の東畑開人さん、東大大学院総合文化研究科の清水晶子教授(フェミニズム理論)との鼎談(ていだん)もあり、学術的な分析もなされている。

 「とても個人的な問題ではあるけれど、実は社会の問題でもある。どっちが正しい、正しくないとも言いづらい状況の中で、2人が共存するためにはどうしたらよかったのか」。同じ立場の人、そうではなくとも生きづらさを抱えている人。勝又さんは全ての人に、本を通してそう問いたい、と考えている。

 四六判374ページ、3400円(税別)。連絡先は金剛出版03(3815)6661。

日記を読み返す勝又さん。「昔の自分と対話する作業は当時を思い出してつらかったが、本にすることで消化できた」という

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