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<歴史エッセー 仙台大空襲の全記録(2)>東京以北で最も空襲に適した街 ―― 石沢友隆(郷土史家)

 仙台大空襲は昭和20年(1945)7月10日未明、米軍第58爆撃航空団によって行われた。同航空団はテニアン島西基地に司令部があり、約150機のB29を保有していた。
爆撃計画はどのようなものだろう。米国政府は昭和52年(1977)秋、これまで極秘扱いにしてきた日本本土空襲の資料を公開した。河北新報社の後藤成文記者はワシントンに飛び、国立公文書館で東北地方の仙台、青森、秋田、郡山各市のB29による空襲の実態を取材、紙面で連載した。

 それによると、同航空団が国防総省に報告した「攻撃目標・仙台都市地域」の作戦任務詳報に次のような記述が見られる。

 「仙台の市街地は、焼夷(しょうい)弾攻撃の目標としては東京以北で最上の都市である。人口の大半は駅を中心に2平方キロ以内に固まっており、2~3の広い通りを除き、防火に有効な公園、広場がない。一般の家は木と紙でできている」

 確かにその通りで、当時、広い道路と言えば市電通りだけ、大半は江戸時代の町並みそのままだった。鉄筋ビルは県庁、市役所、簡易保険局、三越、藤崎、生保会社、東北帝国大学、東北学院専門部、市立病院など数えるほどしかなかった。

 作戦任務詳報には、こんな文面も見られる。

 「仙台は本州北部の交通の要衝で、鉄道は四通八達、工業面では市南部に整然とした工業地域、東の郊外に多分飛行機の組立工場、北東に大規模な各種砲弾と火薬製造工場がある。西方には広瀬川を挟んで大学と軍事施設、兵舎群が位置している」

 米軍の見立ては大体正しい。当時人口は28万、現在東北大学川内キャンパスのところには第二師団司令部や各部隊の兵舎、倉庫などが点在していた。

 市内と周辺地域は、意外に知られていないが、東北有数の軍需工業地帯だった。陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城村)、海軍火薬廠(船岡町)の巨大な軍需工場があり、原町、多賀城の工場では1万人規模の徴用工、学徒勤労動員の学生、生徒が24時間体制で兵器を生産していた。このほか、民間では長町に航空機、通信機材、機関砲部品などの工場が点在していた。

 これらの工場群のほとんどをB29は攻撃しなかった。今回は一般民家を大量に焼くことで、市民の心理面の動揺を狙ったのだろう。

「空襲近し」演習や防空壕づくりに追われる

 「空襲近し」の情報に、日本国内は対応に追われた。大都市・東京では被害を最小に押さえるため一般家庭は地方の縁故を頼って、家族ぐるみで疎開するよう推奨された。文部省(現文部科学省)は地方に縁故のない国民学校児童を学校ごと各県に分散疎開するよう指示した。学童集団疎開である。

 宮城県には昭和19年8月から9月にかけて、現在の文京、台東区の3~6年生約1万8000人が、先生や職員に引率されて列車で着き、鳴子、秋保、作並などの温泉地や寺院、学校で親と離れて集団生活を送ることになった。

 防空演習も強化された。隣組単位で主婦たちがモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてリレーでバケツの水を勢いよく掛ける。訓練は日中戦争が始まったころは月1回だったが、戦局が厳しくなると週1回、2回と増やされた。空襲で役立ったかというと、消火活動した人たちはごく一部で、大半は猛火の中逃げるのに精いっぱいだった。

 防空壕(ごう)づくりも急がれた。仙台市には丸太材25万本が県からあっせんされ、終電後の市電に乗せて各所に配った。市内には575カ所の公共防空壕、5万5000カ所の一般防空壕、広瀬川河畔の段丘がけなど15カ所に横穴式防空壕がつくられた。

 防空壕と言うと、平成22年(2010)11月、韓国延坪島(ヨンピョンド)に北朝鮮が突然砲撃してきた事件を思い出す。テレビには島のあちこちにある防空壕に避難する様子が映し出されたが、分厚いコンクリート製の頑丈な壕であった。

 それに比べると日本の防空壕は、家の周囲の空き地や庭、畑に穴を掘って木材やトタンでふたをし、その上に土盛りする爆弾の爆風よけだった。空襲は焼夷弾が主体だったので、あまり効果はなかった。

 猛火の中で一番役立ったのは防火用水である。江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路や神社の境内などに貯水槽が設けられた。熱風の中を逃げ回る人たちは顔や体を防火用水につけ、かぶっていた布団や毛布を水で浸してからまた避難した。

 空襲の際、消防車が入れる道路や鉄道を守るため、駅周辺などの密集した民家が取り壊されて道路や広場になった。仙台では一次分として仙台駅周辺などの1067戸が解体された。

空襲直前に高射砲部隊到着

 空襲前日の昭和20年7月9日早朝、国鉄(現JR)仙台駅1番ホームに23両の軍用列車が到着した。砲身をシートで厳重に包んだ高射砲21門と、敵機を照らす探照灯18基が積んであり、操作する2個大隊も到着した。

 「仙台の空襲が近いということなので、青森に向かう列車を急にこちらに回した」という話で、列車は長町操車場(現在のあすと長町)に回され、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKのアンテナ付近に高射砲陣地がつくられた。米軍はそのことをまだ知らない。

 それまで仙台にあった対空砲は青葉山に改造野砲2門、簡易保険局、仙台電話局、藤崎百貨店屋上に機関砲各1門という貧弱なものだった。

 後の話になるけれども、せっかく届いた強力な高射砲群も、ほとんど成果はなかったように見えた。空襲体験者は声をそろえて「弾丸は途中でぱっとさく裂してしまい、B29まで到達しなかった」と語る。「砲を支える台座を固定するコンクリートが乾かないうちに空襲が始まってしまい、弾丸を発射するたびにぐらついた」との高射砲部隊の隊員の証言もある。

 米機は高射砲に驚き、当初3000メートル級で爆撃を始めたが、8000メートルまで高くしている。しかも米軍の資料によると、空襲中に撃墜された機はなかったが、6機が被弾し、帰途不調をきたしたB29を含めて13機が硫黄島に一時着陸している。

短波放送やビラで予告「7月10日は灰の町」

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