無形の力、師から教え子へ 石巻地方
師が取り組んできた芸術・文化活動を受け継ぐ教え子たち。師の教えを胸に新たな創作の世界に挑む教え子。師から教え子への継承に地方文化の無形の力を見る。(久野義文)
バレエ文化の華、開かせたい
< 佐東悦子先生 ⇨ 佐藤範子さん(石巻市)、小松未羽さん(女川町)>
昨年10月1日、女川町生涯学習センターでバレエ教室の合同発表会があった。石巻市のNバレエスクール(主宰・佐藤範子さん)と女川町のバレエスタジオプリューム(主宰・小松未羽さん)だ。2人の主宰者は世代こそ違うが共通点があった。恩師がどちらも佐東悦子さん(1932年生まれ、大崎市)だった。
佐東さんは57(昭和32)年、地方では珍しいバレエ教室「石巻バレエ研究所」を石巻市内に開設。石巻地方にバレエ文化を根付かせようと普及活動に情熱を注いだ。研究所から育ったのが佐藤さんであり、小松さんだった。
「幼稚園の時に入った」という佐藤さんにとって怖くて厳しいおばでもあった。「習いなさいと言われても最初はおばから逃げていた」と笑う。小松さんは6歳の時に習い始めた。「女川二小だったので学校が終わると石巻まで通った。それが週6回。先生が古川に拠点を置くようになってからも通い続けた」
たたき込まれたのがバレエの厳しさ、強い精神力。基本の形ができるまで何度もやらされた。「気を抜くと、すぐばれて怒られた」と顔を見合わす。「バレエはスポーツ半分、芸術半分」と2人でうなずく。
その後、歩んだ道はそれぞれ違うが、最終的には古里を拠点に師を継ぐ形になった。佐藤さんは2007年にNバレエスクールを、小松さんは20年にバレエスタジオプリュームを開設した。
その間に東日本大震災があった。小松さんは京都のバレエ学校にいて無事だったが、津波で父親を亡くした。大街道の教室に車で向かおうとした佐藤さんは危うく難を逃れた。合同発表会は震災を乗り越えた二つの教室の第一歩となった。
「今は私たちが怖い先生かも」と笑いながら、2人は師の教えを胸に刻み決意を新たにする。
「先生から学んだのは自分に厳しくあれ、ということ。根気よく毎日、努力すること。いろいろな経験を重ねた人生の全てを踊りにして表現すること。第一線を退いたがご健在で、今も先生からおしかりを受けることもある。先生の思いを受け継ぎ、石巻地方にバレエ文化の華を開かせたい」
■佐東悦子
日本のバレエ界の草分け的な舞踊家・石井漠に才能を見いだされ、高校卒業と同時に上京し門下生になる。第一線で活躍するようになるが56年、体を壊して帰郷。バレリーナになる夢を絶ち、翌57年に石巻バレエ研究所を開設、石巻地方でのバレエ文化普及に努める。
82年、世界三大バレエの一つ「白鳥の湖」全幕を、84年には創作バレエ「浦島太郎」を日中合作劇として石巻市民会館で上演した。石巻公演も定期的に開催、子どもたちにバレエをする機会を与え、市民にバレエの魅力を伝えることに情熱を注いだ。
「バレエを探求するためには自分の一生なんて短すぎる」
妥協しなかった人だった。
面白い絵あふれる街に
< アサイ美術部(石巻市)>
「うまい絵と違って面白い絵は誰でも描ける」
「自分にしか描けない絵がある」
「絵で遊べ」
画家で、石巻女高(現・石巻好文館高)美術教師だった浅井元義さん(1938~2018年、石巻市生まれ)が生前、美術部員に告げた言葉で「浅井語録」と言われている。「ボソボソと言うんだよね。でも小さな一言が含蓄に富んでいた」
懐かしむのは教え子らで結成する「アサイ美術部」の女性5人だ。「浅井先生」の死去をきっかけに5年前、石女高美術部OG会が追悼展を開催したのが始まり。その後「仲間に入れて」と周囲から声が上がった。石巻女高美術部顧問だったが、「浅井先生」は他校の美術部員たちからも慕われた。その当時の人たちが「一緒にやりたい」と加わってきた。そこで誰でも参加できるように2年前、名称をアサイ美術部と変えた。
先の5人も高校時代の美術部員で早坂多美恵さん、佐藤浩子さん(石巻女高1980年卒)、宮里紀恵さん、和田佳子さん(同81年卒)、豊原みどりさん(石巻市女高=現・石巻桜坂高=82年卒)だ。一人一人が「浅井先生」と過ごした美術の時間を大事にしている。
浅井語録の中で最も印象に残っているのが「おもしぇちゃ」だった。「面白い」の石巻弁だ。部員の絵をのぞき込んで、描いた本人の個性が作品に現れていると、ボソッと「おもしぇちゃ」と言った。
「いい絵だな、と言われるよりも、おもしぇちゃが最高の褒め言葉で、うれしかった」
今、アサイ美術部が目標としているのは「おもしぇちゃ」と言われる絵の文化を市民の間に普及させることだ。昨年の10月展では誰でも絵が描けるワークショップを開き好評だった。
「市民が描く面白い絵で街があふれたら楽しい。先生が目指そうとしたところを私たちで一歩ずつかなえたい。もちろん先生の絵も多くの人に見てもらい、画家としての先生のことも知ってほしい。先生の絵を通していろんな人との巡り会いが生まれ、つながっていく感じ」
アサイ美術部員一人一人の心に浅井先生と、その教えは生き続けている。
■浅井元義
浅井に絵を描く楽しさを教えたのは石巻公民館長だった太斎惇。1951年に子どもたちを対象に「日曜写生会」を開講、浅井は1期生だった。東北大では静物画に独自の絵画世界を築いた杉村惇教授の門下生となり技法を学んだ。美術教師であると同時に、素早いタッチと張り詰めた線で古里・石巻を描く画家として知られるようになった。
太斎の精神を継ぎ石巻地方の絵画文化発展にも貢献。81年、絵画研究グループ「黄土展」を結成。カルチャー講師としても活躍、絵画人口のすそ野を広げた。
浅井が震災前に描いた街並みや北上川などのスケッチ画は、確かにあった古里の光景として貴重な記録になっている。
「描いでっが?」胸に制作
< 浅井元義先生 ⇨ たんのそのこさん(盛岡市)>
「丹野、描いでっが?」
石巻女高(1984~87年)美術部時代、顧問だった浅井元義先生と廊下で鉢合わせすると、必ず掛けられた言葉だったという。
教え子の一人たんのそのこさんは岩手大に進学。同大特設美術科専攻科修了後は盛岡市を拠点に活動。陶土カオリンと出合い、これを画材にした抽象画の世界と格闘し続ける。その作品を最初に認めてくれたのが浅井先生だった。
「私の絵を見て戸惑う人が多い中で先生は面白がってくれた。『描きたいものを見つけたんだな、良かったなあ』と言われた気がした。有頂天になった」
2019年、第83回新制作展(新制作協会主催)絵画部門で、石巻を題材に再生への願いを込めた「車窓より・枯れ葦(あし)」が入選した。昨年は縦1メートル60センチ、横2メートル70センチという抽象画の大作「立像・時雨の光」が、6月から9月にかけて岩手県岩手町の石神の丘美術館に展示され、入場者の心を捉えた。
「すれ違った学校の廊下で、美術室で教えていただいたことは計り知れない。『自分の線を描けるか』と問われた時も、その一言が重く響いた」と振り返る。
が、恩師はもういない。 「先生と直接、会うことはかなわなくなったが、先生の声『描いでっが?』は繰り返し聞こえてくる。私はその声に『描いています』と答えられる自分でいたいと思っている。絵を通して先生と対話できるのは幸せなことなのかもしれない」
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