閉じる

#東北から能登半島へ 避難生活どう乗り越えた? 東日本大震災経験者に緊急アンケート

 石川県で最大震度7を観測した能登半島地震を受け、河北新報社は4、5の両日、東日本大震災の経験者を対象に、災害発生後の1カ月間で役立った支援や避難生活の教訓などを尋ねる緊急アンケートを実施した。173人が回答し、被災経験を踏まえたアドバイスが相次いで寄せられた。
(編集局コンテンツセンター・三浦夏子)

東日本大震災で被災者が身を寄せた体育館。集団での生活が余儀なくされる避難所では個々人のスペースには限りがある=2011年4月、宮城県登米市

 震災発生後の1カ月間に役立った支援として、飲料や温かい食事を挙げる人が多かった。息子が食物アレルギーという仙台市青葉区の40代パート従業員女性は「アレルギー対応の食べ物を頂いた時、とてもありがたかった」と振り返る。電気やガスの供給が止まった中、カセットコンロを重宝したという声も目立った。

 東北の被災地では当時、ガソリン不足が深刻だったため、青葉区の70代男性会社員は「自転車」の支援に感謝する。女性の生理用品や処分用の黒いごみ袋、大人用の紙おむつや紙パンツ、赤ちゃん用のミルクといった回答もあった。

 一方、「不要不急」と感じた支援として、賞味期限間近の食品や生野菜、古着などの回答が目立った。避難所には各地から激励の千羽鶴が贈られたが、「気持ちが伝わってきてありがたい半面、飾る場所も限られていて難しいと感じることもあった。お礼状の制作にも追われた」(青葉区の30代女性教職員)と、善意への対応に苦慮する声も寄せられた。

 避難生活の長期化に追い打ちをかけたのが、電気や水道、ガスといったライフラインの復旧遅れだった。「1カ月以上、風呂に入れなかった」という回答者が多く、「水のいらないシャンプー、使い捨ての体拭きシートなどはたくさんあっていい」(青葉区の30代女性教職員)という意見があった。太白区の50代男性会社員は暖房や炊事に「反射式ストーブ」が役立ったと答えた。

東日本大震災の発生から3日目を迎え、不足し始めた食料品を仙台市宮城野区のスーパーマーケットで買い出す被災者=2011年3月13日

[アンケートの概要] 1月4、5の両日、河北新報社の無料通信アプリ「LINE(ライン)」公式アカウントとフェイスブックページで協力を呼びかけた。回答者は173人で、内訳は男性86人(50%)、女性84人(48%)、「答えない」が3人(1%)。年代別で見ると、10代が2人(1%)、20代が6人(3%)、30代が9人(5%)、40代が35人(20%)、50代が42人(24%)、60代が44人(25%)、70代が27人(16%)、80代が8人(4%)だった。東日本大震災の発生から1カ月間、主にどこで過ごしたのか尋ねると、自宅が122人(71%)、避難所が10人(6%)、車が5人(3%)、その他が30人(17%)だった。割合は小数第1位を四捨五入しているため、合計が100にならない場合がある。一般の世論調査とは異なる。

 アンケートの主な設問と回答は以下の通り。

【設問】東日本大震災では全国各地、世界中からさまざまな支援が寄せられました。避難生活ではどのような支援が役立ちましたか?また、今振り返ると不要不急だった支援はありましたか?当時の状況も含めて具体的に教えてください。

「全国から支援していただきありがたかった」

【自宅避難】
ガスの復旧のため全国から支援していただいたのはありがたかったです。(仙台市宮城野区・60代女性・会社員)

あまり支援されませんでした。すべて自分たちで調達しました。(仙台市泉区・60代男性・会社員)

いらなかった物は、分けられない数の物。賞味期限が短いもの。ニンニクの匂いが強い物。千羽鶴、励ましの手紙。(仙台市泉区・30代男性・自営業)

お米、カセットコンロ、カートリッジガス、ペットボトル水、やかん、チョコレート、サラダオイル、パスタ、フライパン。(仙台市宮城野区・60代男性・会社員)

ガス復旧のため、全国のガス事業者が各家庭を回り復旧させてくれた事。一カ月お風呂に入れず我慢した日々、あの方たちへの感謝は今も忘れていません!(仙台市宮城野区・40代女性・主婦)

カセットガスボンベ。(仙台市太白区・50代男性・看護師)

ガソリン不足だったので自転車支援が意外とありがたかった。女性は生理用品の支援が助かったと思います。赤ちゃんのオムツ、ミルクが良かったかな。寒かったので石油ストーブが役に立ちました。(仙台市青葉区・70代男性・会社員)

カップラーメン。(仙台市青葉区・70代男性・無職)

たくさんいただいた支援物資の食べ物はアレルギー持ちの息子が食べる事ができずに困った。アレルギー対応の食べ物をいただいた時、とてもありがたかった。(仙台市青葉区・40代女性・パート従業員)

たまたま、自宅の被害はなかったので、自宅で生活ができました。ただライフラインの復旧に時間がかかり苦労しました。また、食料が底を付き炊出しのご飯をいただきに行きました。(仙台市泉区・60代男性・病院職員)

街中の中学校体育館に3日間避難しました。海沿いや津波被災地域には、全国からの支援物資が回っていたが、私が避難した所にはほとんど食料が入りませんでした。3日目に電気と水道が復旧したので自宅に戻りましたが、被害が少ないと思われているエリアにも食料を運んであげてほしいです。子供が未就学児だったので、未就学児でも食べられるものも支援してあげてほしいです。(仙台市青葉区・50代女性・会社員)

東日本大震災後、仙台市若林区の南材木町小で住民にみそ汁とバナナを振る舞うボランティアら=2011年3月13日

「給水が一番助かった」

とにかく給水が一番助かりました。不要不急なものは思いつきません。(仙台市青葉区・50代男性・会社員)

どこかのお寺から、生活用品、レトルトの食品が届きました。東海地区のお寺でした。(仙台市太白区・60代男性・教職員)

なんでもうれしかった。缶詰めは特に。(仙台市若林区・50代女性・会社役員)

パンやパックご飯、調理に使えるカセットコンロとカセットボンベなどがとても役に立った。また、女性は生理用品やそれらを捨てるための黒いごみ袋などが必要である。(宮城県名取市・20代女性・学生)

飲料水。(仙台市青葉区・60代男性・会社役員)

飲料水、乾電池、カセットコンロ用のガスの配布。河北新報の配布。携帯電話を避難所で借りる事ができてとても助かりました。あとは自衛隊の方が設営してくれたお風呂。(宮城県石巻市・40代女性・会社員)

飲料用の水道水だけ支援がありました。(宮城県岩沼市・70代男性・アルバイト)

温かい食べ物が食べたかったので、キッチンカーや炊き出しの温かな食事がうれしかったような思い出があります。(仙台市宮城野区・40代男性・教職員)

下着が役立った。お尻シートも良かった。物資が無かったので不要不急は無かった。全てがありがたかった。(宮城県登米市・60代女性・パート従業員)

何と言っても、食料、水。それとアルコールウェットティッシュなどの日用品。近所の銭湯で、入浴できたこと。更衣含めて30分の制限でしたが、ひさしぶりのお風呂はありがたかったです。とある芸能人からの支援金でもちろん地震が落ちつき、日常の生活に戻ってから遠足にアンパンマンミュージアムへ行きました。ありがたかったです。(宮城県名取市・50代女性・主婦)

家族が多かったので、避難所にお世話になることなく過ぎてしまいましたが、皆さまからの義援金がとても助かりました。修繕費用として使わせていただきました。体育館などで避難されている方、近隣県の空き住宅の提供をしていただいたら、暖を取るのもいいです、プライバシーが守られていいのでは?東日本大震災のときも避難所などでの暴行などでの被害者を考えますと、予防のためにも世帯ごとに仮住まいの準備を進めてほしいです。寒空の下1本の空のペットボトルを抱えてなんてナンセンスなことをさせないでください。(仙台市泉区・60代女性・主婦)

給水車。(仙台市太白区・50代男性・会社員)

給水車がありがたかったです。(宮城県角田市・60代女性・主婦)

生鮮食料品や生活必需品を求める人々が詰めかけた仙台市青葉区の大型スーパー=2011年3月14日

「とにかく温かいものです」

学校職員です。避難所になり運営を手伝っていました。今でなく日にちがたってからでいいので、ラジオ体操や野外合宿のように係分担をして、身体を動かし、共同協力して過ごしてもらいました。美容院や共同浴場、温泉への無料招待や、自衛隊が来て炊き出しをしてくれたことが、避難していた方はうれしかったと思います。とにかく温かいものです。缶詰などは味付けが濃く、口に合わず残りがちでした。いろいろな所から服が届き、仕分けが大変でした。リサイクルショップや個人からもたくさん届きました。そんな古着より新しい下着、衛生用品、あと、プライベートスペースが作れる仕切りと、厚さのある布団です。(宮城県名取市・50代女性・教職員)

期限切れのパンやペーパー類が欲しいと伝えても全く届かなかった。避難所ばかりではなく各家庭にも届くようにできたら助かると思います。あとわが家では反射式ストーブが大活躍しました。鍋も作れるしお湯も沸かせたから助かると思う。(宮城県七ヶ浜町・40代男性・会社員)

義援金。(宮城県気仙沼市・50代男性・会社員)

給水車が来ていただけるのが助かりました。(宮城県柴田町・40代女性・主婦)

給水車からの水は助かった(宮城県石巻市・70代男性・農林水産業)

近所のケーキ屋が材料の在庫があるかぎり、パンを焼いて差し入れてくれた。(仙台市泉区・70代男性・無職)

古着などの寄付がたくさん寄せられたが、仕分けをするのが大変だった。(ボランティアをした時)乾電池が無くて困った。(仙台市宮城野区・70代女性・農林水産業)

困っていない我が家にも菓子飲み物等が配布された。事情は分かるし難しいと思うが?(宮城県塩釜市・80代男性・無職)

支援の情報がなかなか入らずにいました。やはり避難所にいた方がよかったのかと思う時がありました(仙台市若林区・60代女性・公務員)

支援は受けなかった(仙台市宮城野区・70代男性・自営業)

支援は受けませんでした。自宅に備蓄した食料があったので、会社からの配給も他の人に譲りました。近所の公園から水を運び、トイレを流しました。調理をするのに、カセットコンロが役に立ちました。カイロも暖をとるのに役に立ちました。通勤用の自転車は電車が止まって帰れない人にあげました。その人の家では荷物運びに自転車が活躍していたそうです。
生理用品が買えなくて、布で代用していました。余震で調理を中断する事が多く、材料はありましたが、簡単に食べられる物があると、どんなに良いかと思って生活していました。ストレスは貯めて暮らしていました。音楽は🎵安らぎになります。(仙台市青葉区・50代女性・専業主婦)

支援物(宮城県東松島市・40代男性・会社員)

支援物資を集めて、仕分け作業をした。新入学児童のために大量のランドセルが集まったが、メーカーから新品が寄付されて余った。地元のコミュニティ放送ラジオが、地域の細かい情報を流したり、聞きなれた声の防災士のアナウンサーからの、アドバイスや励ましの言葉に助けられた。(仙台市泉区・60代男性・会社役員)

自宅で生活したので答えるのは憚られる。いつも利用している通販のお店からペットボトルの水が届いたのには嬉しく思った。(仙台市太白区・50代女性・パート従業員)

避難所で炊き出しに並ぶ被災者=2011年3月13日、仙台市若林区の七郷小学校

「県外からの支援に感謝」

周りに比べれば被害が小さかったため、特に支援はなかった。落ち着いてきてからの宮城の物を購入してくれた、県外の方には感謝。(宮城県大崎市・40代女性・会社員)

自宅で避難生活を送っていたので特段の支援は無かった。ライフラインが復旧した頃に町内会からカセットコンロのガスボンベが数本支給されたが、カセットコンロを持っていなかったので返品しました。(仙台市青葉区・40代男性・会社員)

自宅の損傷だけで、避難所に行きませんでした。(仙台市青葉区・80代男性・無職)

自宅マンションにいましたが、どこからも何の支援もありませんでした。唯一、マンションの管理会社からの指示が頼りでした。町内会の集会所は避難所に指定されていないので情報なし、物資なしで役員が困っていた。その後、自宅マンションは一部損壊の認定がされました。(仙台市太白区・60代女性・主婦)

自宅避難でしたが、食べ物など備蓄しておいたので助かりましたが、食べ物がなく困った方も多かったです。自宅避難の方にも食べ物をいただければありがたいと思いました。(宮城県塩釜市・50代女性・会社員)

自宅避難なので食料が助かりました。(仙台市青葉区・70代男性・無職)

自分の判断だけで行動するのは、危険だと思いました❗️(神奈川県・60代男性・無職)

自分は内陸の人間だったが、沿岸部の人はだいぶ時間がたってからおにぎりを持ってこられても、飽きると言っていた。あと、顔を洗えない子が多いとも言っていたので、ウエットティッシュみたいなのがあるといいかも。(仙台市青葉区・30代男性・会社員)

初日の夜、避難所に行ったが市指定の場所ではないので支援物資は来ないと言われ自宅に戻った。指定避難所は既に満杯と言われた。避難所はもう少し増やしてもいいのかも。居住地域が当時よりかなり人口が増えたので。仙台市に検討してほしい(仙台市太白区・50代男性・自営業)

小学校の校庭に炊き出しが来たが、寒いところで立ちっぱなしで行列に並ぶのが辛かった。(仙台市若林区・60代・無職)

情報です(Twitterでの情報提供)何より情報が欲しかったし、役に立ちました。現状どんなことになっているのか分かるだけで、かなり不安が減りました。うれしい支援はモバイルバッテリーです。電気が開通するまで本当に助けられました。それと、ろうそく。電気復旧するまで、夜の暗さが本当に本当に、怖かったので。あとはガスが使えなかったので、鍋用のガスコンロ。電気が使えなかったので、石油ストーブ(上で煮炊きもできるし)が助かりました。(福島県国見町・40代女性・会社員)

職場に全国から支援物資が送られてきました。人の人情を感じました。(仙台市若林区・60代男性・無職)

食べ物がうれしかったです。特に甘いものが食べたくなった時にいただいたお菓子がうれしかった。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

食材の入手が困難でした。震災の翌日おにぎりの支給にありつけほっとしました。(仙台市青葉区・70代女性・無職)

食品他(仙台市青葉区・50代男性・会社役員)

食料と紙皿が助かった。(福島市・30代女性・教職員)

食料品、ほとんどが売っていなかたり、売り切れだったり、大変でした。(仙台市青葉区・70代男性・パート従業員)

食糧(仙台市泉区・30代男性・会社員)

新聞(宮城県松島町・40代男性・会社員)

水、トイレ、歯ブラシ、暖かい環境、暖かい食べ物、生理用品、オムツ、あかり、ストーブ。(宮城県塩釜市・50代女性・会社員)

水。すぐに食べられる食べ物。炊き出し。短期間保存可能な食べ物。人が一度使用した衣類やスキンケア用品は使用状況にもよった。(仙台市若林区・40代女性・会社員)

水の供給には感謝してます❗️あとはお風呂の件。少し離れた友人たちが迎えに来てくれた事❗️(仙台市青葉区・70代女性・無職)

生活インフラ、ガス等復旧支援!食材支援…阿部笹かまぼこ屋さん等…地震保険会社さんの緊急査定。(仙台市泉区・80代男性・無職)

仙台市内で家屋の被害がなかったので支援を受けていません。支援品の仕分けに人手を要したようですが、県が管理を一元管理し、市町村からの要望品を配送するシステムにする。必要品以外の物は送らず募金に回すよう啓蒙(けいもう)すべきと思います。(仙台市宮城野区・70代男性・無職)

全ての支援がありがたかったです。(仙台市泉区・60代男性・会社員)

全国からの支援を受けられる被害ではありませんでしたが、手に入れて大変役に立ったものを記載します。1.ヘッドライト 灯りのない水で濡れた避難場所の体育館で、両手を使わず歩く先を照らす事ができとても役に立った。両手があくのが家族のサポートや自身の移動時に重要だった。2.帽子 余震がある中、頭を守るために被っていることで安心できた。洗髪ができない中で髪の汚れを防ぎ、不衛生な印象も隠せる事ができてとても必要な物だった。3.メガネ(仙台市太白区・50代女性・パート従業員)

即席の食料、携帯充電が役立った。電気が使えないため洗濯は手洗いをした。乾燥機があると良いと思った。(仙台市太白区・40代女性・団体職員)

息子の会社シャープよりペット飲料水、カップ麺ほか届きました。ありがとうございました。(仙台市青葉区・70代男性・無職)

他県からの給水車による給水。朝早くから夜遅くまでして頂き、出勤前に給水に行きました。学校に届いた、食べ物。果物がなかなか手に入らずおいしかったのを覚えてます。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

断水したので、給水車の支援は助かりました。それ以外の支援は特に無かったです。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

津波も来なかった、家もまあ無事なわが家では 給水が1番役に立ちましたそれも町ではなく地元企業の方が無償で地下水を使わせてくれました。町の情報は『パンが配られたらしい』とか『~で給水しているらしい』等のうわさが聞こえる程度でした。でも、家を直す助成金は役に立ちました。困ったのは、『食べ物に困っている』という報道に親戚たちが、なぜか真空パックの餅5キロずつ送って来たので始末に困った。中には『こちらも、困っているが送ってやるよ』という高圧的な手紙まで入っていた物も。(宮城県柴田町・40代女性・パート従業員)

通信会社の修復、水道の修復、電気の修復です。やはり通信が一番かな。安否確認等できないのはつらい。(仙台市宮城野区・60代女性・無職)

電気復旧工事(仙台市太白区・50代男性・会社員)

東北ソフトボール協会を通じて、秋田のきりたんぽ鍋を1600人分炊出しをしに、女川町と東松島市に伺い地元の方や自衛隊の人に食べてもらった事を思い出します。(宮城県大崎市・60代男性・会社員)

当時、父がガンを患っていて停電で酸素吸入ができなくなる心配があり、役場で病人への対応がきちんとされていて安心できました。病人への支援がうれしかったです。(宮城県川崎町・50代女性・会計年度任用職員)

当初は水。次にガソリン、灯油など。商店等で物が手に入るようになってから送られて来た即席麺などは無駄になった記憶があるので、発災直後だけでいいと思う。(宮城県岩沼市・50代男性・自営業)

同じ被災者に対して、差がつくような支援に今でも遺恨がある。夏頃にダウンの配布があった時は、今じゃない、と思った。(仙台市宮城野区・50代女性・主婦)

日本全国のパトカー、救急車、消防車、に会うたびに頭を下げ、自分を励ましていました。とにかく、飲み水が欲しかった。(仙台市宮城野区・80代男性・無職)

反対に支援をしました。(東京都・70代男性・教職員)

搬入し易い避難所には余剰に支援物資が搬入されていたように思う!! また寒さ対策が、この時期は、底冷えするので毛布等は、重ねて使えるよういくらあって毛布いいのでは?(仙台市太白区・50代男性・自営業)

被害が少なく支援は受けなかった。(仙台市宮城野区・60代男性・主夫)

被災していなかったが、数少ない食糧の買い物や水の補給の生活をしていた。また電気が使えず携帯の利用は控えめ、夜はろうそくでの生活、井戸水で風呂を沸かしたりしていた。(宮城県角田市・60代男性・無職)

被災後の時間によって変化しました。初めは水、電気(電池)、食糧。次に燃料、ガソリン。次に希望、勇気。(仙台市太白区・70代男性・会社役員)

福島県南相馬市内の避難所に身を寄せた住民=2011年3月16日、南相馬市原町区の原町保健センター

「給水車に助けられた」

避難所ではなく自宅にいたので特に支援はありませんでしたが、給水車に助けられました。(仙台市泉区・70代女性・主婦)

避難とは別に、仙台の健在を示すべく2011年に5月にイベントを開催しました。その際に全国各地から「景品に役立てて」とさまざまなものを送っていただきましたが、「コントローラーがなくなったラジコン」や「片方しか無い靴」など、明らかに「いらないもの」が混ざっていたケースがあり、その分別だけでも手間取ったので、本物の支援物資の分別は本当に大変だと思います。その経験上、「中身がハッキリしない、ビックリ箱や福袋みたいな支援は一切不要」とだけは言えます。また、母がコカ・コーラを好きだったのですが手に入りにくく、友人から何か送ろうかと言われた時にコカ・コーラを所望しました。さらに、コンビニなど商店が営業していない時期にはタバコが手に入りにくかったのですが、たまたま前年の値上げで私は50カートンもの爆買いをしていて被災時もストックがあったため、被災した喫煙者の友人を見回った際にタバコが無い状況であれば、カートンごと配っています(いつ次が手に入るか分からないので)。被災時はとにかくすさんだ精神状態になる事もあり、ジュースや甘味、タバコといった「嗜好品」は決して不要不急とは言えないと思います。(仙台市太白区・40代男性・自営業)

避難所には行かず自力で過ごしていたため、支援物資等の支給はなかったです。良かったのは電気を使わない古いストーブ煮炊きができ、暖も取れました。(宮城県七ケ浜町・60代男性・自営業)

避難所は小学校だったのですが、偶然にもプールに水が溜まっていて、トイレの水を流すのにペットボトルに入れて持って帰って良いと言われたこと。(仙台市泉区・20代女性・学生)

避難所を諦め自宅でした。自宅退避の場合、援助は、全然なく、停電で何もできず不安な日々を。多少の援助が欲しかったです。(仙台市若林区・70代女性・無職)

避難生活はしていません。ただ、水道が止まり、電気が止まり、買い出しもできない、車も動かない。物が無い。そんな中,助かったのはボランティアの活動、炊き出し、救援物資、生活水の配給など数多くあります。(宮城県気仙沼市・60代男性・無職)

服が届けられました。新品であればありがたかったのですが、そうでないものは誰も着ることがなく、処分に回されるのがほとんどでした。(仙台市泉区・50代男性・教職員)

服など貰いました。サイズも全く合わず着られませんでした。頂くのはとてもうれしいのですが、着られない物などは、正直困ってしまいました。店も閉まってて、買い物もできなかったので、甘い物を頂いた時はとても感動しました。(宮城県多賀城市・50代女性・パート従業員)

物資はあまり届かない地域だったのですが、他県から応援で来てくださってガスを早めに使えるようにしていただいたのが本当に助かりました。(宮城県利府町・40代女性・会社員)

物資は回って来ないので、諦めた。幸い自宅の破損がなく、電気・ガス・水道がしばらく使えなかったくらいだった。自助・共助で食材等持ち寄りながらしのいだ。支援は、本当に避難所生活の人に回ればよいと思っていた。(宮城県名取市・40代女性・会社員)

保健師などによる心のケアサポート。(宮城県名取市・40代女性・会社員)

役立ったもの。生理用品。自宅でしたので勤務先に関係ある会社からの支援でした。(仙台市青葉区・60代女性・会社員)

はるかかなたから自分の生活を犠牲にしてまで来てくれている。ただそれだけで心は癒されました。頑張らなきゃって。(仙台市青葉区・40代女性・学生)

水、アルコールジェル、トイレットペーパ、ティッシュ、濡れティッシュ、食べ物、菓子やパン、暖を取るもの、毛布やカイロ(福島県相馬市・40代女性・公務員)

体が不自由(左半身麻痺)で炊き出しを取りに行くのも 近くにいる方に声かけて お願いしたり、トイレに行くのにも段差があったりと、身内も身寄りもいない者には避難所は苦痛でした。(仙台市太白区・60代女性・無職)

備蓄があり 近くに飲める井戸があったので 寒さをしのぐのだけが大変でしたので 支援は受けませんでした。(仙台市青葉区・70代女性・主婦)

仙台市太白区の避難所で朝食を取る東日本大震災の被災者=2011年3月17日

「簡単に食べられる物が役立った」

【避難所】
やはり簡単に食べられる物、カップラーメンやおにぎり、パンが役立ちました。食材が届いてもそれを調理する人も必要となり洗い物も出て、手間と時間がかかりました。チョコレートや安納芋の焼き芋もホッとさせてくれました。靴下や下着も有り難かったです。(仙台市若林区・40代女性・パート従業員)

一番うれしく思えたのは、暖かいものを口にしたこと。(宮城県石巻市・60代女性・無職)

支援はきたが、食料は最悪だった、小さい子どもいたからオムツ必要だったが、無かった。不要不急?何にもない中そんなことは思う程余裕なかった。もらうものは何でももらって必要な人に、あげた。(宮城県石巻市・50代男性・会社員)

歯磨きガム→断水にて、歯磨きできなかったため。(宮城県石巻市・40代女性・会社員)

食料品は少しずつでもスーパーに並べば手に入った。支援食は分けあって食べた。水道が出てから家に戻れました。ライフラインを…早急に急いでほしい。(宮城県多賀城市・70代女性・主婦)

暖かい食べ物、毛布、お風呂。(宮城県栗原市・30代女性・パート従業員)

暖かい炊き出しがうれしかったです。それまでは、パン一つすら行き渡らなかったので。(仙台市青葉区・30代女性・パート従業員)

当時、高校一年生でした。役立ったもの→筆記用具や本(一日中何もすることがなく、何か時間を潰せるものが欲しかった)。不要不急な支援→使用感がある衣類等(被災者というだけで、見苦しい身なりをしなければいけないのか…と学生ながらに傷ついた)(宮城県石巻市・20代女性・会社員)

燃料特にガソリンが手に入らず病院にも生活必需品も手に入れるのが困難でした。(宮城県南三陸町・50代男性・自治体の任期付職員)

おにぎりを配られた時、泣きました。自衛隊から毛布をもらった時も、うれしかった。(仙台市若林区・60代男性・会社員)

東日本大震災直後の避難所=2011年3月11日、仙台市若林区の荒町小

「食料品があれば何とかできた」

【車避難】
食料品があれば何とかできた。不要不急な支援は特になし。(仙台市泉区・20代男性・学生)

若林区だが、津波は来なかった。1週間は車で生活。食料や水の支援は、助かった。不要なものは、もらわなかった。電気、水道、ガスの再稼働を早くしてほしい。(仙台市若林区・70代男性・アルバイト)

毛布、水、食料(宮城県白石市・80代男性・団体役員)

「人員の応援が嬉しかった」

【その他】
自宅は壁にヒビが入った程度。会社の倉庫がめちゃくちゃなので東北各地、北関東からの人員の応援がうれしかった。徐々に毛布や食料の支援も届いた。ガソリンも1回届いた。(宮城県名取市・60代男性・会社員)

家が残されていた地域だったために、物資が届くのに時間がかかった。(岩手県陸前高田市・40代女性・会社員)

コンロで食事がつくれたこと。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

発災直後は、何より水と食料です。数日待てば支援があるだろうと思っていたけれど、津波の影響で行き来もできず、あるものでしのいだ。電気がない中、石油ストーブも何よりうれしかった。避難所生活ではなかったが、食料を調達できるようなところもなく、しばらくの間苦労した記憶がある。不要不急と感じたものは特にありません。(仙台市宮城野区・40代男性・会社員)

家のすぐそばのウジエスーパーの駐車場に一歳の娘ととりあえず避難。おむつも食べ物もなく、スーパーの方が店からオムツとバナナを持ってきてくれて毛布も借りた。実家に避難後、避難所からおにぎりなどをもらってきた。冷蔵庫、冷凍庫にあるものを灯油ストーブの上にフライパンをのせて全部加熱した。キャンプに使うとても明るいライトで夜を過ごした。お風呂に入れず、ベビーバスを出してきてストーブで温めたお湯で子供を入れた。(仙台市太白区・40代女性・パート従業員)

最初の1週間は避難所、その後、妻は実家、私は自宅で過ごしました。支援物資の仕分けが役立ちました。避難最初は食料や服の支援、その後は洗剤などの生活物資の支援が必要になりました。(宮城県大崎市・40代男性・教職員)

食料と水(仙台市若林区・50代女性・会社員)

とにかく水が役立ちました。あとは小さな子供がいたので、なるべく不安にさせないように、頂いた菓子パンやジュースがとてもありがたかったです。(宮城県角田市・20代女性・自営業)

冷える避難所では防寒対策は欠かせない。避難所となっている岩手県陸前高田市の中学校の体育館では毛布が行き渡っていた=2011年3月16日

「ライフラインの復旧に感謝」

全国各地からライフライン復旧に駆けつけていただいた方々には感謝しています。(仙台市青葉区・60代男性・会社員)

避難所ではなく自力での避難生活だったので、支援物資の情報はほとんどなく、周りの方々からの情報が頼りでした。避難所ではない避難生活者への支援が足りなかったと思います。(宮城県多賀城市・50代女性・アルバイト)

水、食料品、衣服。(宮城県南三陸町・60代男性・会社役員)

経過日数により必要なモノが変化します。被災者のニーズを的確に把握できるようしてください。また、自宅避難者のニーズ把握が難しいので工夫が必要です。(宮城県東松島市・60代男性・公務員)

石巻在住。被災して、第一に決めたのは、トイレ利用のルールでした。バケツに水を準備して利用したら流すことや、きれいに使用するルールを話し合いました。誰かにしてもらうことよりも、自分たちで協力することが重要でした。(宮城県石巻市・60代女性・教職員)

職場で仕事をしていました。何と言っても『水』、『火』、『食』が絶え、生きることに必死でした。給水車、カセットガスコンロ、缶詰、ガソリンを求めて歩き回りました。遠方の友人からの支援は助かりました。必要なものがあれば送ってもらいました。(宮城県大衡村・60代男性・教職員)

自衛隊の給水車が来て、貯水タンクに給水してくれました(2日に1回は来てくれました)。備蓄食料はすぐ無くなるので、食料の補給は不可欠でした。しばらくの間は雑炊的な物を食べてもらいました。(宮城県岩沼市・60代女性・生活支援のヘルパー)

衣類(盛岡市・50代男性・会社員)

小さい子がいたので最初のうちは身近な人から必要なものを聞かれて新潟まで買いに行ってくれたりしました。宅配便が届くようになってからは食料がたくさん送られてきましたが、おいしいカレーのレトルトやおいしいスープのお湯をかけるだけのものなんかはかなりありがたかったです。安くておいしくないものは結局ほとんど食べなかったかも…。生野菜の葉物とか送ってくれた方もいましたが、ほぼ食べられない状態になって届きました。(仙台市太白区・40代女性・主婦)

衣類やカップ麺は特に助けになりました。さとうのご飯とレトルトカレーもありがたかったです。下着も助かりました。生野菜は不要。(宮城県石巻市・60代男性・無職)

状況、環境で大きく異なると思います。できるだけ、非日常を日常に近づける支援ですね。一律では無いと思います。(宮城県石巻市・50代男性・社会福祉法人)

仙台の姉夫婦のところで一週間、あとは自宅へ戻りました。うちでは不自由なかったので、送られたものを避難所へ持っていきました。のちのち良かったと言われたのは、大判の体拭き(濡れタオル)でした。入れるものがない(バッグ類)がないと言われて、そうか!と思わされたこともありました。(宮城県山元町・60代女性・会社員)

暖をとるもの、カセット式コンロ、飲料水、鍋、スープ、非常食、ペーパー、缶詰目類、ブルーシートとロープなど一斗缶や、ペール缶など活用して廃材を拾ってきて火を炊く屋外だったら、さらにブルーシートで囲いかぜを避けるようにする。とにかく寒さをしのがなくては!(宮城県七ヶ浜町・60代男性・会社員)

自宅のある地区は建物等の被害ない地域で特に支援物資は受けてなかった。(仙台市青葉区・60代男性・会社員)

「日持ちのする食品が役に立った」

日持ちのする食品、調理不要の食品(洗い物の必要がないもの)、炊き出し、自衛隊のお風呂などが役に立ちました。電気も計画停電だったり、水やガスが止まったりしたので、上記のものは非常に役立ちました。当時石巻で教員をしていたのですが、千羽鶴や手作りの小物、横断幕などもいただき、とても気持ちが伝わってきてありがたいと思う半面、飾る場所も限られていて、難しいと感じることもありました。また、いろいろなものをいただいたことに対してのお礼状の制作に追われることもありました。(仙台市青葉区・30代女性・教職員)

私は数日間イオンに避難していたので食料、トイレの心配が無くて助かりました。必要だったの歯ブラシ、洗顔セット。生理用品、オムツ等大切です。(仙台市泉区・60代女性・主婦)

食品や防寒具。家族はちょっとした暖を取るための毛布がとてもありがたかったと言っている。(仙台市宮城野区・40代女性・会社員)

支援物資がなかった。スーパーであるもの買った。(仙台市若林区・60代男性・会社員)

その時、私は職場で被災した。一晩そこで避難し、昼頃自宅へ帰る自宅は津波で被災した家には誰もいなくて連絡もできずひとりで片付けをしていたら子供たちが避難所から戻って来ました。昼間は片付け夜は避難所へ3カ月続きました。(宮城県塩釜市・70代男性・自営業)

何も支援物資は、もらわなかったので分からない。知人の家で過ごせたので助かりました。(仙台市太白区・50代男性・会社員)

食料、トイレ(仙台市宮城野区・50代女性・公務員)

全国の自治体などの応援によるライフラインの復旧がありがたかった。不要だったのはテレビの取材。社会的役割は分かるのだが、段取りからうるさかった。新聞は悲しい事実を直視しない傾向がある。凄惨な悲劇を情報として伝えるべき。正常化バイアスを起こさせない報道が必要。炊き出しに感謝、などはニュースではない。(仙台市太白区・60代男性・会社員)

当時は独身でしたが、現在子供がいます。子供に食物アレルギーがあり、食べられるものが限られています。アレルギーに配慮した食品が送られてくるとうれしいです。(仙台市青葉区・30代女性・教職員)

必要なもの:カセットコンロ。ミルク。オムツ。発電機。お菓子。身体拭くシート。コンタクトの保存液。モバイルバッテリー。ドライヤー。ガソリン。要らないもの:タバコ。(仙台市宮城野区・40代男性・会社員)

3月12日に河北新報と牛乳が届いたのには感動しました。生活必需品である情報や食料が確保できた上に、大変な事態の中でも「日常」を届けてくれる方々に勇気をもらいました。(東京都・20代女性・学生)

東日本大震災後、仙台市若林区の南材木町小で住民にみそ汁とバナナを振る舞うボランティアら=2011年3月13日

【設問】東日本大震災では避難生活が長期化し、多くの人が不便を強いられました。あなたが特に困ったのはどんなことでしたか。そして、その困難をどのように乗り越えましたか。避難生活でのアドバイスも含めて当時の状況を具体的に教えてください。

「お風呂に入れなかったこと」

【自宅避難】
お風呂に入れなかったこと。自宅避難者は避難所などのように自衛隊の支援が無かったので。◯◯温泉が無料開放しているなど、知人同士で情報共有していました。(宮城県多賀城市・50代女性・パート従業員)

水が出ない間は皿にラップを敷いて洗わなくても良いようにした。水の容器が足りなくダンボールにごみ袋をかぶせて水瓶とした。(仙台市宮城野区・80代女性・主婦)

①飲料水、生活水…給水車待ちでは間に合わないし不足!…泉ヶ岳や、根白石に出向き分けていただいた!②暖房や炊事燃料…灯油、卓上コンロガス…冬に備えてあり、燃焼式ストーブもありしのげた。③買物等…車利用が多くなり、ガソリン不足がネックになった…近場は徒歩、スタンド行列待ち、等で何とか間に合わせたが、相当の不便が強いられた…国に石油備開放を直接、マスコミ経由間接要望するも、実行してもらえなかった!④69歳で、3月末からボランティア活動に参加し、約9年間続けたが、当初、被災地や活動に駆けつけたボランティアさんは着の身着のままと手弁当なし…貧弱な食事や自炊等で参加されておられた…もちろん、被災者さんはもっと大変。ボランティアセンター等の効率的運営が未熟だった。また、首長さんの関与度にもバラツキがあり、活動意欲が損なわれそうにもなった。加えて、国の大臣等の現場視察では、行事化したイベントになっていて、被災者やボランティアそっちのけの行動が、現地のひんしゅくを買っていた。(仙台市泉区・80代男性・無職)

1週間以上の断水で、トイレが流せず困った。給水車からの水を大切に使っていたので、髪が洗えずかゆくてつらかった。ドライシャンプーが欲しかった。携帯トイレがあれば良かったと思う。(福島市・30代女性・教職員)

オール電化なので 停電が何をするにも支障を来しました。頑張らず流れに身を任せておりました。(仙台市青葉区・70代女性・無職)

お風呂に入れない、髪の毛も洗えないのがつらかった。(仙台市若林区・50代女性・会社役員)

お風呂に入れないこと。洗髪ができないこと。全壊しておらずライフラインが回復した友人知人が自宅に招いて入浴させてくれた。(仙台市若林区・40代女性・会社員)

ガスが使えず、1ケ月近く風呂に入れなかった。1度だけ電気温水器のある知り合いが、風呂を使わせてくれて助かった。(仙台市泉区・60代男性・会社役員)

ガスが長期間使用できませんでした。そのためにお風呂に入れませんでした。電気ポットでお湯を沸かして、ベビーバスにためて髪を洗いました。2時間沸かし続けてもほんの少しのお湯です。(仙台市青葉区・50代女性・主婦)

ガスの復旧に1カ月以上かかったこと。お風呂に入れず、水でシャンプーしました。体を拭くものや水無しシャンプーなどがあると助かると思います。(仙台市青葉区・50代女性・会社員)

ガスの復旧に時間がかかり、なかなか入浴できなかったことです。復旧済みの友人宅やスポーツクラブがシャワーを開放してくれたのでそこでお世話になりました。体を洗えないのもストレスになりますが、避難生活の中でちょっとでものんびりする時間を持てることも大切だと感じました。(仙台市青葉区・50代男性・会社員)

ガソリンが手に入らないので耐えた。耐えるしかなかった。(仙台市若林区・50代女性・公務員)

東日本大震災後、生鮮食料品や生活必需品を求める人々が詰めかけた仙台市青葉区の大型スーパー=2011年3月14日

「ガソリンは1カ月以上手に入らなかった」

ガソリンは、1カ月以上手に入らず。停電、1週間だったかと。石油風呂のため、灯油がありストーブ使用が救いでした。(仙台市若林区・70代女性・無職)

ガソリンスタンドの開店情報。(仙台市太白区・40代女性・団体職員)

ガソリンの不足、何ともならなかった。自宅に置くことができれば10Lでも買い置きがあると良かった。(仙台市宮城野区・60代女性・無職)

ここは車がないと移動できない場所なのでスタンドにガソリンが無くなる不安、給油できない不安で給油ができると聞くとスタンドの長蛇の列に並んで給油しました。なので常にガソリンは十分なくらいに給油しておくこと、被災のときは車をできるだけ使わないような工夫し、何家族かで他県へガソリンを携行缶へ給油してきたこともありました。(宮城県川崎町・50代女性・会計年度任用職員)

トイレ、風呂(仙台市泉区・30代男性・会社員)

とにかく水道の回復までが大変だった。電気温水器がとても役に立ったのと、ご近所さんの雨水タンクからいただいた水が、トイレ用にものすごくありがたかった。余震が続くので、あまり宅内を完璧に復旧させない方が良いという考えもある。1カ月後にまた全部叩き落とされた時には心が折れそうだった。あとはなんと言ってもガソリン。この手持ちがあるかないかで、原発がおかしくなった際の遠隔地への避難から、日常を取り戻す段階まで、極めて深刻な差を生み出したことを強調しておきたい。普段から給油は余裕を持って済ませておくべき。(宮城県岩沼市・50代男性・自営業)

マンションだったので給水タンクが壊れて断水が続いたのが大変でした。秋田の実家でお風呂に入って親戚のガソリンスタンドでガソリンを満タンに入れてもらった時には涙が出ました。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

みんなが下を向いて、無理してつらそうにしていた。コーヒー、お茶、チョコなどの嗜好(しこう)品はとって良い。避難しているからって、悲壮感に包まれなきゃダメなわけじゃない。(仙台市泉区・30代男性・自営業)

ライフライン。隣近所の方々からのいろいろな情報です。(仙台市泉区・60代男性・会社員)

ライフライン。電気がついたのが、4日後あたり。皆で歓声を上げました。遠くの明かりを見ながらうらやましく思いました。ガソリンがなくなり、朝4時にガソリンスタンドに並びました。食べる物がなく、しかし当時住んでいたマンションにはバーベキューガーデンがあり、皆で持ち寄ったもので、鍋やうどんを作って食べました。電気が通ると、ホットプレートで温かいシチューを作り、おすそ分けしました。具があまりなかったですが、感動して頂けました。(宮城県名取市・50代女性・主婦)

ライフラインがなかなか難しい状態でした。石油ストーブが何かと助かりました。(仙台市青葉区・70代男性・パート従業員)

ライフラインが使えず、発電機でご飯を炊いたり、トイレについては、必要性があるときだけ水を上から流し入れました。お風呂は、プロパンガスの友人宅に入れてもらったりで、スーパーに並び買い出しという数日を乗り越えました。能登半島の被害に遭われた方、これから寒さも厳しくなり大変なことと思われます。くれぐれも体調に気をつけて過ごされてください。(仙台市泉区・60代女性・主婦)

ライフラインの早期復旧。(宮城県多賀城市・50代男性・会社員)

東日本大震災の発生から3日目。不足し始めた食料品を仙台市宮城野区のスーパーマーケットで買い出す被災者=2011年3月13日

「一番必要なのはトイレ」

一番必要なのは、トイレ🚻(宮城県石巻市・70代男性・自営業)

飲み水、食べ物、ガソリン、なるべく動かない事。(仙台市宮城野区・80代男性・無職)

飲料水の確保、水道とガスの復旧に1カ月を要したのでお風呂に入らなかったのはつらかったですね。生活水に雪を利用しましたが解けたら汚なかったことを覚えています(設備が壊れました)。(仙台市青葉区・70代男性・会社員)

栄養補給が菓子中心ということがあった。ただ、カルシウム豊富なウエハースなど、食事の代わりになるようなものだったのは救いだった。(仙台市青葉区・30代男性・会社員)

温かい食事、暖かい睡眠、そして排泄(はいせつ)、これは3大要素、大事なことです。排泄が容易でないことは、健康に大いに差し障りがあります。指定された避難所では、段ボール箱の簡易トイレは一週間分用意しておくべきです。折り畳んであるからそんなにたくさん場所とらないでしよ。費用もそんなにかからないし。どんなに発達しても、急に支援は来ないので、あれないこれない、あれしてこれしては無理。自助、共助、公助の順で努力するしかない。あと河北新報さん、震災翌日の早朝、朝刊届けてくれてありがとう。非常階段使ってマンションの七階まで届けてくれました。震災後、初めて話した人です。心細かったので、安心しました。(仙台市宮城野区・60代女性・会社員)

仮設住宅等生活基盤ができるまで長期に居住できた方が良いですね。資材不足や高騰、人材不足でなかなか家をできませんでした。(仙台市太白区・50代男性・自営業)

家族の安全確保。会社の復興。(仙台市太白区・70代男性・会社役員)

わが家では、買い置きのインスタント麺やレトルト食品がありましたので、助かりました。(仙台市青葉区・80代男性・無職)

寒さ対策で反射型石油ストーブ。(仙台市青葉区・60代男性・会社役員)

近所の協力と情報。(仙台市宮城野区・40代女性・主婦)

近所もたくさんの方が被災し、皆で会えば笑顔で話し、つらい事も救われた。(仙台市泉区・80代女性・無職)

原発事故での放射能汚染が怖かった。(宮城県角田市・60代女性・主婦)

幸い、わが家の被害は少なく、早くから電気も復旧したので知り合いに連絡してスマホの充電などに利用してもらった。ボランティアとして避難場所へ行った経験から、いすの生活が高齢者には助かるし、段ボールのベッドがあるのだから早く各避難所へ配布してほしい。(仙台市宮城野区・70代女性・農林水産業)

高層マンションなのでポリタンクに水をくんで階段を何度も往復するのが大変だった。今では5リットルポリタンク7缶に水道水を満たしてローリング保管している。(仙台市宮城野区・60代男性・主夫)

高台で津波被害はなかった。最初の一週間は食糧、水に困った。暖房は非常用に石油ストーブを物置に保管していた。わが家はオール電化に近いが、タンクの灯油を利用して煮炊きもできた。太陽光発電で携帯の充電もできた。(宮城県塩釜市・80代男性・無職)

細かい支援として、子どもたちのケアが大切であるため、支援する学校にコンタクトをとり支援。(東京都・70代男性・教職員)

死者が少ない所には支援物資がすぐ届きましたが、死者の多い所はテレビで放送されないため、支援物資の到着が遅れ、主食がパンや萩の月という所が多く大変でした。(宮城県大崎市・60代男性・会社員)

「お湯が出ない暮らしを強いられた」

自宅で過ごしていましたが、都市ガスが1カ月近く復旧せずお湯が出ない暮らしを強いられました。電気ポットや石油ストーブでお湯を沸かし、水で薄め乗り越えました。(仙台市太白区・40代男性・自営業)

自宅で避難していたので衣食住は大丈夫だったが、都市ガスが復旧せず、お風呂に数週間入れなかったのがつらかった。石油ストーブでお湯を沸かしてタオルで体を拭いたり、洗面器にお湯を張り洗髪した。(仙台市青葉区・40代男性・会社員)

自宅の一階部分が津波で被災し、二階で生活しました。停電と断水が続く中、大変だったのは生活用水の確保。給水車が来る所まで歩いて行き、袋やペットボトルに入れた水を運ぶのがとても重かったです。おりものシートを使い洗濯物を減らしたり、ウエットシートで食器を拭くなどして、極力水を使う量を減らしました。(宮城県石巻市・40代女性・会社員)

実家の両親が津波でわが家に避難して来て家族の人数が増えたため、ガスが使えない、ガソリンが足りない、食料品が手に入らないは大変でした。(仙台市若林区・60代女性・公務員)

車の燃料不足。(仙台市宮城野区・70代男性・自営業)

車通勤でしたが、ガソリンが入れられなかったのが、一番不便でした。しかしながら、自転車通勤と割り切ったのは今ではいい(懐かしい)経験です。(仙台市泉区・50代男性・教職員)

取材応対も大変です。不必要な取材は辛い思いしている方に無理にやめてほしいです。物資支援要請とか、必要な情報を伝えたい方のみにしてほしいです。(宮城県名取市・50代女性・教職員)

食事を取る事が難しかったのだが、物置にストーブがあり外でストーブを炊いて冷凍庫にあった物を調理した。(仙台市太白区・50代女性・パート従業員)

食事及び自宅で入浴できなく、親戚宅にお風呂を借りにいった。やはり備蓄食料はできれば一人1週間分の食料は確保していたほうがいいと思いました。(仙台市泉区・60代男性・病院職員)

食料、ガソリンです。食料については、スーパーの行列に並び、ガソリンについては、車の列に並び必要な分、確保することが出来ました。(青森県八戸市・50代男性・会社員)

食料品の調達に苦労した。そして仕事に従事しながら食料を探した。(宮城県岩沼市・70代男性・アルバイト)

食糧の調達。自転車を買って、探し回りました。灯油とガソリン。(仙台市太白区・60代男性・教職員)

食糧不足。買い置きは必要(宮城県大崎市・50代・会社員)

寝る時、段ボールを敷き段ボールで小さな部屋を作ると、暖かく風も来ません。段ボールと、ガムテープは使いますよ。(宮城県七ヶ浜町・60代男性・自営業)

親戚や、知り合いとは、もしもの時のために定期的な連絡を取って置く事が大事だと感じました。(神奈川県・60代男性・無職)

水(宮城県松島町・40代男性・会社員)

水がないから、飲み水、トイレが大変でした。(宮城県気仙沼市・60代男性・無職)

東日本大震災直後の避難所=2011年3月11日、仙台市若林区の荒町小

「温かいものは心休まる」

水が出ない。近くの飲める清水をくみに行きました。石油ストーブでくんで沸かして、お風呂に入れてお風呂に入れたとき、泣きそうになりました。あったかいものは、心休まると思います。飲み物にしろカイロにしろ靴下にしろ、あったかい支援はうれしいです。ペットの餌が買えない。友だちが働いていたホームセンターになんとか融通してもらいました。自分ならなんでも食べるけど、決まったものだけ食べていたペットの餌は死活問題でした。(福島県国見町・40代女性・会社員)

水が出ないので、トイレが流せない。食器などが洗えない。お風呂に入れないなど、衛生対策が大変でした。たまたまウェットティッシュやアルコール消毒液があったので、それで乗り切りました。(宮城県塩釜市・50代女性・会社員)

水とガスが無いのが困りました。飲料水は友人が井戸水を運んでくれました。トイレの水は雪をお風呂で解かして使用しました。停電中の炊事は反射式の石油ストーブで。通電してからは、電気プレートや鍋が活躍しました。お風呂はプロパンガスを使っていた友人宅で借りました。(仙台市青葉区・60代女性・会社員)

水と食料。給水車に助けられ、食料を求めて長時間並んだ事です。日頃からの備蓄があると良かったなと思っています。(仙台市泉区・70代女性・専業主婦)

水と電気がないのが大変でした。ストーブもなくて寒かったけど、寒さはダウンコートでしのぎました。食事は鍋1つで雑炊のようなものを作って、皿にラップをかけ、洗い物を極力減らしました。友人の家では集中ガスだったので、ガスが止まり、カセットコンロでしのいでいましたので、カセットガスを差し入れました(宮城県柴田町・40代女性・パート従業員)

水の確保に車を使っていたが、ガソリンが不足して長い列に並んで待っていた。食糧の買出しに並んだり、空いている店を探していた。いつか元の生活に戻る事を祈り、堪えず今ある生活でしのいだ。(宮城県角田市・60代男性・無職)

水道が使えないこと。幸い近所に井戸があったので、飲み水には使えないが風呂など他の事に使った。うちは都市ガスだったので、お風呂が使えなかったため、プロパンガスのお宅にお借りした。(宮城県名取市・40代女性・会社員)

水道が復旧しなかったこと。(仙台市太白区・50代男性・会社員)

水道の復旧が遅く、水をくみに行くのが大変だった。幸い職場が水を持ち帰りOKにしてくれたのでペットボトル2Lを4本毎日いただいていました。その時にキャリー?のようなものをくれた方がいて、運ぶのがとても楽になりました。当日バスも途中までしか走っていなかったので坂道を3キロも水を持ちながら上り、帰宅していました。どうか企業の方は水を持ち帰りOKにしてください。また、住宅地は水が出なくても、意外と近くの寂れた公園の水飲み場から水が出たりしました。試す価値あります。(仙台市青葉区・40代女性・学生)

生鮮品。ガソリンはバイクのタンクから抜いて使った。(仙台市太白区・50代男性・看護師)

断水(仙台市青葉区・50代男性・会社役員)

断水、停電、都市ガス停止、エレベーター停止、ガソリンの給油ができない、公共交通機関の停止、スーパーでの買物制限、停電でテレビは見れず、配達される河北新報の情報が主だった。状況が変わる事を待つしかなかった。(仙台市太白区・60代女性・主婦)

断水が一番困った。皆で給水場に並んで水の確保をした。(仙台市泉区・70代男性・無職)

断水が長く続いた事が大変だった。積もってる雪を解かしたり、食器は近くの川で大まかな汚れを落とした後にすすいだりしていた。湧き水が出ているところに行って、ペットボトルに水をくんだりしていた。ペットボトルなどが無くても、大きなビニールを二重にして箱やカゴに設置しても水をためられます。節水のために、食器にラップを敷いたり、割り箸を何度か使い回したりしていた。(宮城県利府町・40代女性・会社員)

断水と電気がないことが大変でした。特に、当時はアパート住まいだったため、借りている身としては工夫することなどもできず大変だった記憶があります。近所の方から「うちは水が出るようになったよ」と言われてからも、自宅が通水するまでに数日かかったような気がします。根も葉もないうわさ話に惑わされてガソリンスタンドに並んだこともありました。(仙台市宮城野区・40代男性・教職員)

「避難所にとどまらなかった人への見守りが課題」

地震による半壊、津波により1階部分が破損しても、避難所よりはマシなので留まった親戚や友人を見て回った経験上、「避難所に留まらなかった人」への見回り、見守りが課題です。給水車へ水をくみに行こうにも水のくみ置き容器がない親戚へ、手持ちの水タンクを届けたり、風呂に何日も入っていない友人のため近所のスーパー銭湯の整理券を確保してクルマで連れていったり、個人的な活動をしていましたが、とにかく情報が確保できなければどうにもなりません。友人も被災後に避難所で充電するまで携帯電話を使えず、それまで安否すら不明だったりで、「情報と連絡手段の確保」が最大の困難であり、それさえ乗り越えればある程度は自力や周囲の支援を得られるものです(ガソリン不足も、カメイや出光がインターネットでスタンドの開店情報を出してからは、だいぶ効率的に並べました)。周囲からも、誰が助けを求めていて、誰が必要ではないかの確認ができなければ、どうにもなりません。まず何よりも困り、何よりも必要なのはザックリとした「~町では何が困っており」ではなく、もっとピンポイントの情報でした。(仙台市太白区・40代男性・自営業)

長い期間、お風呂に入れなくて、髪の毛がかゆくて大変でした。発災から10日くらいたった頃だったでしょうか、1000円カットでシャンプーしてくださるという情報を人づてに聞き、少し遠かったですが行きました。この経験から、水のいらないシャンプーのストックは大事だと思いました。(宮城県柴田町・40代女性・主婦)

停電3日間。断水7日間(宮城県塩釜市・50代女性・会社員)

停電が、一番困りました。昼間は、特に気になりませんが、だんだん暗くなるにつれて、寂しさが増してきました。ラジオから流れるアナウンサーの声や番組が乗り越えた気がします。(宮城県多賀城市・50代女性・パート従業員)

停電になり電気に困った。なので、今はモバイルバッテリー、ランタン、懐中電灯はかなりある。ガスは一番復旧が遅いのでカセットコンロ、電気調理器、電気ポット等はあると便利。電気復旧が割と早かったから。(仙台市太白区・50代男性・自営業)

電気、ガス、水、すべてがない状態で最低限必要なのは水。特にトイレのために水を確保するのが大変だった。自宅にいたため、水はお風呂にためていた水をバケツに入れなんとか流していた。このときは、排尿は2人分排泄(はいせつ)したら流すなどして水を節約していた(衛生上は良くない)。また、長い間お風呂に入ることができなかったが、赤ちゃんの体拭きシートやボディシートなどで汚れやすい部分をきれいにしていた。避難所にいるとあまり動かないがエコノミークラス症候群になることが懸念されるため、寝るときに足を上げて寝るなど対策してほしい。(宮城県名取市・20代女性・学生)

電気、ガス、水道が使えない。ガソリンがないと買い物に行けない。薪と炭があったので外で煮炊きした。頼ってきた娘夫婦、孫9人と犬、ウサギの食事を乗り切った。(仙台市宮城野区・70代男性・無職)

電気、水道、ガスが不通になりましたがトイレの水が無いので小便は流さず、大便の時だけ風呂水で流しました。幼児の入浴のため庭で鍋に湯を沸かしてから風呂に入れました。岩手県在住の義弟から灯油、米、食糧など届けてもらいた助かりました。(仙台市宮城野区・70代男性・無職)

電気、水道が断たれた状況下で、①暖房と煮炊きする燃料②食料と水③排泄用簡易トイレ④ガソリン⑤風呂またはシャワー。(仙台市青葉区・70代男性・無職)

電気。電池の在庫はあったが、すぐになくなっていた。会社で太陽光発電を電気に使う使い方が分からず、使えるものが使えなかった。テレビで石川県で家が傾いてどうしたらいいの?と見ましたが、うちも傾きました。ハウスメーカーに、ジャッキアップみたいなものしてもらいました。かなりお金はかかりましたが、保険で何とかなりました。地震保険は必須です。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

電気つかず水ですガスつかず。(仙台市青葉区・70代男性・無職)

電気とガス水道のライフライン。(仙台市宮城野区・60代男性・会社員)

電気は何とか、我慢と練炭で暖が取れた。日の出とともに規則正しい生活となり自然と健康的だったが、ガソリンの調達が大変だった。日頃から昔の暮らしぶりを思い出したり、アウトドアを通していざという時に役立つ知識や物が必要と思う。(宮城県大崎市・40代女性・会社員)

東日本大震災で被災者が身を寄せた体育館。集団での生活が余儀なくされる避難所では個々人のスペースには限りがある=2011年4月、登米市津山町

「なるべく早くガソリンを被災地に送ってほしい」

電気もガスも止まって不便でした。たまたま石油ストーブがあって、寒さ対策、お餅を焼いたり、身体を拭くお湯を沸かしたりと重宝しました。実家のことが心配でしたがガソリン⛽️が入れられなくて、遠方の実家に帰る事ができませんでした。なるべく早くガソリン⛽️を被災地に送ってもらいたいです。また、マンションの電気が💡つくと聞いた時には通電火災が起きないように管理組合理事と一緒に火🔥の手が上がらないか外から住戸の窓ガラスを見てました。(仙台市若林区・60代男性・無職)

当時7人家族だったので水が足りませんでした。1カ月間水道が使えなかったので隣町の公園でくんだりしてました。浄水場が津波で壊れたらしく下水も流さないでとの事でしたのでできるだけ隣町の親戚の家のトイレを借りてました。お風呂も借りてました。なんと言ってもガソリンが無く買い物もままならない状況でしたので不可欠だと思う。(宮城県七ヶ浜町・40代男性・会社員)

当時まだ子ども(9歳)だったので、正直不便なことはありませんでした。ですが、夜になると電気が使えず、どんどん真っ暗になっていくことに恐怖を感じた記憶はあります。母はかなり生活に関すること(水や調理など)で困っていたのではないかなぁと思います。(仙台市泉区・20代女性・学生)

特に困ったこと→お風呂。次に困ったこと→ストーブ。都市ガスだったので、風呂に入れないのが困った。近くの親類宅が電気でお風呂を沸かせたので、2〜3日おきのもらい風呂で乗り切った。その後、電気でお風呂を沸かせる器具を調達し、自宅で風呂に入れるようになった。石油ストーブが無く、寒くて困った! 震災翌日、ヘリで津波から助けられたいとこを、仙台から大河原まで車で送っていき、大河原の叔父宅から石油ストーブを借りることができた。だが大河原まで、車で行ったらガソリンが無くなり困った。うわさで、どこそこのスタンドならガソリンを入れられると聞いて、早朝並んだがムダだった。電気ガス灯油、何かが使えなくても、代わりに使えるように、器具をそろえておくこと。うわさではなく、確実な情報を得ること。(仙台市若林区・60代・無職)

猫がいたので、皆と一緒の行動ができなかった。(宮城県登米市・60代女性・パート従業員)

買い物ができなくて、食べるものに困った。ガスカセットコンロは必須。温かいものがあれば力がわく。(仙台市宮城野区・50代女性・主婦)

避難生活したわけではないが、欲しいものがどこで手に入るか分からないのがもどかしかった。寒い中、スーパーマーケットの長い列に並んでも何が売っているのか分からない状況だった。(仙台市太白区・50代女性・パート従業員)

避難生活はしなかったが、1週間ほど停電と断水が続いた。幸い井戸水が使えたのと、ガスコンロが使えたので助かった。石油ストーブが1台あり、茶の間に置いて暖を取った。ペットボトルにお湯を入れてバスタオルにくるんでこたつに入れて簡易湯たんぽにして、夜は足を温かくして寝ることができた。農家なので、米の備蓄はあったし、野菜も適度に保存してあったことで食事はなんとかなった。備蓄と熱源や非常用バッテリーの準備は大切です。(岩手県一関市・60代女性・主婦)

備えていたのであまり不便は感じなかったが、「人と話す」ことは大事だと思った。同じ体験をした人同志で分かち合うことで、心が癒された。(仙台市青葉区・40代女性・パート従業員)

「停電と断水が不便だった」

不便だったのは停電と断水。3月14日の夜に停電は復旧して、すぐにガソリンスタンドに行きました。断水の復旧は1週間かかりました。お店はありがたいことに12日から店舗の外でやっていただきました。停電していて現金しか使えなかったので、現金は大事だと実感しました。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

北陸の友達に発災後すぐにガソリンを満タンにするよう連絡しました。東日本大震災のときは、しばらく余震で家に入れなかったので、ワンボックスカーに布団を積み、暖を取りながら車で二晩過ごしました。ガソリンがなくなりガソリンスタンドに夜中から並んで大変でした。断水が続きましたが、友達や親戚が水を届けてくれたり、給水車があったり、店で買うことができました。自衛隊が作ってくれた大浴場も利用したり、隣県の温泉に入りに行きました。家に豆炭こたつがあり、みんなで温かく眠れました。カセットコンロであり物を集めて自炊できました。避難所にも行き一晩過ごしましたが、名簿に安否の記載をして、帰ってきました。避難所は津波から避難してきた人もいて、私の家は津波被害がなかったので犬もいたため自宅に戻りました。大型犬は避難所に入れないので大変でした。避難所のトイレが汚れていて流すことがうまくできず掃除も十分できず大変そうでした。自宅では新聞紙やラップ敷紙皿などを使いました。便利でした。小さい子供がいたので、他県の友だちがお菓子の詰め合わせを送ってくれたのもうれしかったです。(宮城県多賀城市・50代女性・主婦)

夜中に外に1人では出ない事を強く言われました。(宮城県塩釜市・40代女性・自営業)

ただ必死に生活しました。食料で苦労しました。(仙台市泉区・60代男性・会社員)

障害者には不自由な場所。(仙台市太白区・60代女性・無職)

暖房、食事の煮炊き。卓上コンロとボンベを多めに備蓄した。(仙台市青葉区・70代女性・主婦)

避難所から来ていた人はご飯もないので、炊いて持っていったりした。(福島県相馬市・40代女性・公務員)

「お風呂に入れないことがつらかった」

【避難所】
お風呂に入れないことがつらかった。でも自衛隊駐屯地や秋保温泉で毎日のようにお風呂に入れてもらったり、知人宅で入れてもらったりして助かりました。避難所で寝る時は周りの視線や明るさも気になる中、知人が寝袋を貸してくれ頭までジッパーを閉めそのおかげでぐっすり眠れました。(仙台市若林区・40代女性・パート従業員)

トイレが流れなくて臭い中での生活、暖房がなく毎晩防寒着を着て寝ていたのがつらかった!ただ耐えるしかなかった。みんな同じ思いでいるのだから我慢するしかなかったと当時は思っていた。(宮城県石巻市・60代女性・無職)

プライベートがなく着替えができない。常に緊張状態で気を紛らわせるものがない。せめて、子供たちに人形、中高生には紙とペンを与えて欲しい。(仙台市青葉区・30代女性・パート従業員)

高校生でした。学校が始まった時、周りの被災していない友人たちと同じように、宿題や進路希望調査をこなさなければならないことが苦しかったです。通学に1時間以上かかり、避難所の消灯時間もあったので、その中で被災していない人と同じ高校生をしなければならず、必死でした。また、避難所から通学していたのでお弁当の面が苦労しました。毎日賞味期限切れの物資の菓子パンを持って行きましたが、周りの友人は手作りのお弁当を食べていて、みじめでした。今後、被災地では仮設住宅への入居が進むと思います。どうか、高齢者や小さな子供…と同じ優先順位で、学生がいる世帯も入れてあげてください。この先復興の一助となるのは、学生たちです。子どもが頑張ることで大人も勇気と気力が湧くと思います。そのためには一刻も早く環境を整えてあげてほしいです。(宮城県石巻市・20代女性・会社員)

掃除当番でトイレ掃除の後に、すぐ、食べ物を配られた時。手も洗えないので、つらかった。また、カップラーメンの入れ物を取っておいて、器がわりにすると言われたが、カレーのカップラーメンで、入れ物が黄色になっている状態で、ひどかった。また、使い捨てコンタクトレンズが、目が乾燥して、下に落ちてしまい、また、拾ってつけた。生理用のナプキンも不足しており、量が多いか少ないか聞かれて、ナプキンを少し渡された。(宮城県石巻市・40代女性・会社員)

電気がない事と、通信手段がない事。(宮城県栗原市・30代女性・パート従業員)

電気が使えなく非常に困った上に東北電力のミスで通電されなかったことが残念でした。また、トイレで使用する水がなかったことも困りましたが、雨水をためて使用した。(宮城県南三陸町・50代男性・自治体の任期付職員)

避難所生活、知らない人と同じ部屋にいたことストレス最強。乗り越える?より仕方ないだろう。住むとこない、金無い、何にも無いから。アドバイスねぇ、生きるって毎日思うこと。(宮城県石巻市・50代男性・会社員)

母の生活を戻すために、ライフライン、電話連絡手段の回復を待った。(宮城県多賀城市・70代女性・専業主婦)

ガソリンがない。(仙台市若林区・60代男性・会社員)

「ガソリンなどの供給」

【車】
ガソリンなどの供給。(仙台市若林区・50代男性・会社員)

プライバシー、家族で車中泊していた。(宮城県白石市・80代男性・団体役員)

支援がなかったので、町にも話はしなかった。(宮城県柴田町・70代男性・パート従業員)

水道が1週間後に開通した時、注意してください。マンションの上の階の人が、水道水を閉めずに避難したので、私の部屋は水浸しになり、畳や電気器具が全滅。大変でした。それ以外は何とか耐えました。(仙台市若林区・70代男性・アルバイト)

電気がないこと。ラジオで情報が聞けないことがあったこと。(仙台市泉区・20代男性・学生)

「無事だと伝えたくても電話が通じない」

【その他】
電気と水道。無事だと伝えたくても電話が通じない。(岩手県陸前高田市・40代女性・会社員)

寒さ対策。会社に寝泊まりしたが暖房がなく、段ボールを敷いて毛布に包まって寝た。余震が頻繁にあり、眠れない日が続いたが思った以上の体力が湧いていた。人間とは究極の状態でも気持ちで乗り切ることができると悟った。(宮城県名取市・60代男性・会社員)

トイレ、お風呂。ハンジュンマクがお風呂を開放してくれて、とても助かりました。(仙台市泉区・50代女性・会社員)

車が津波で流されたため、移動手段が一番困った。知り合いから自転車を借りて一時間かけて実家に帰り、両親が無事であることを確認できたことを思い出す。原付バイクも役立った。街灯もなく、夜に徒歩で移動することがとても怖かった記憶がある。(仙台市宮城野区・40代男性・会社員)

ガスが使えずお風呂に入りたかった。温泉がありがたかった。バスも時間通りに来ず、親戚を乗せた帰りにバス停に並んでいた人たちを近くの地下鉄の駅まで乗せた。牛乳、納豆、パンがしばらく手に入りづらく、パンはホームベーカリーで焼いて友だちにも配った。(仙台市太白区・40代女性・パート従業員)

ガソリンがなくて困りました。とにかく並んで給油しました。今思うと、自転車などの小回りが効くものがあるといいと思いました。(宮城県大崎市・40代男性・教職員)

マンションの都市ガス復旧に1カ月以上かかった。お風呂に入れなかったので、電気ポットを購入し、お湯を水でぬるくして髪の毛を洗っていた。独り暮らしで怖かったので、同じく独り暮らしの友だちと毎晩のように飲みに出かけていた。カセットコンロで営業してくれてるお店を探しつつ。(仙台市若林区・50代女性・会社員)

衣類、特に下着の洗濯が1番困りました。子供は避難していてもやることは同じなので、汚れた服の洗濯が1番大変でした。お風呂の水と重曹で洗濯するのが汚れも取れて良かったです。(宮城県角田市・20代女性・自営業)

行政が非常に冷たい。(仙台市泉区・70代男性・無職)

ガソリン給油に長時間かかったこと(仙台市青葉区・60代男性・会社員)

自宅マンションが津波浸水しすべてのライフラインが止まり、小さい子供もいたので近くの無事だった主人の実家で避難生活をしていました。下水管も破損したためトイレが仮設トイレの期間があったのですが、小さい子供には階段でトイレに行くのが大変でした。(宮城県多賀城市・50代女性・アルバイト)

当初は米があっても水が無くてご飯が炊けなかった。(宮城県南三陸町・60代男性・会社役員)

政府が自治体活動をスムーズにできるよう財政的支援を早急に表明してほしい。ノウハウが無い自治体には寄り添った国県の支援。(宮城県東松島市・60代男性・公務員)

避難場所でコミュニティがあった時は我慢もしましたが、苦労を共有できたように思います。ところが復興住宅では、人間関係が難しくなるので、課題かなと思います。(宮城県石巻市・60代女性・教職員)

「プライバシーエリアの確保は難しかった」

プライバシー。当時は仕切りとかプライベートエリアの確保は難しかった。コロナもありその部分は解消されているかなと。(宮城県石巻市・50代男性・社会福祉法人)

職場で仕事をしていました。内陸部に住んでいた私たちは居宅の復旧に一生懸命に動けました。そんな中、周辺の被害状況が見えてきて、下水が利府町あたりで逆流し、マンホールから出ているところを見ました。自分たちは内陸から、下流の地域のことを考えず下水を平気で流していたことに気づきました。何かしなくてはというところがありました。(宮城県大衡村・60代男性・教職員)

電気は3日後に復旧しましたが、水道が3週間程駄目だったので、水が出る地域に通勤していた家族が、調達してきました。(宮城県岩沼市・60代女性・生活支援のヘルパー)

個人のプライベートが無い。震災直後の避難場所などから、仮設住宅に入居できるまで。仮設住宅が建つまで、今後行政がホテルを借り上げて、そこに移ることになるかと思います。それまでは辛抱してください。家族ごと、または個人ごとに部屋を割り当てられるので一息つけます。(盛岡市・50代男性・会社員)

困ったとか考えなかったかもしれません。みんな大変なのは一緒なので。お互いの励まし合いが1番心に残っています。震災翌日に歯磨きした時はスッキリして気持ち良かったのでどんなに大変な時も口の清潔は大切だと知りました。(仙台市太白区・40代女性・主婦)

トイレがどこへ行ってもいっぱいで困ったものです。仮設トイレの設置は需要であると思います。(宮城県石巻市・60代男性・無職)

水が出ないと片付けや掃除ができないので自宅での生活に支障がありました。水が出るまで仙台の姉のところで過ごしました。電気も水もあるところで過ごせて気持ちもリセットできた気がします。被災地から離れられるなら少しの時間でも離れてリフレッシュした方がいいです。(宮城県山元町・60代女性・会社員)

私は、社宅にいたので他の人より気遣なく過ごせたと思います。やはりトイレが流せない、風呂がない、食器が思うようにあらえない、なので肌着も洗えず替えられない状況です。トイレには近くの堀から水をくみ、使われてない入れものに3Fまで幾度となく運びました。雨水等ためておくのも方策かな!(宮城県七ヶ浜町・60代男性・会社員)

自宅はガス復旧まで1カ月、水道も半月くらい不通。(仙台市青葉区・60代男性・会社員)

トイレ、洗濯、お風呂などが困りました。トイレは、地区の皆さんと水をくんで使用しました。洗濯は、しばらく実家に帰ったときや市外に出たときにまとめてしていました。お風呂は、自衛隊のお風呂でしたが、雨が降ると湧き水が濁るので入れなくなることもありました。時間が決まっていたので、仕事が終わってからでは間に合わなくなることもありました。衛生面での心配がやはり大きいかと思います。慣れもあって気にしなくなっていきましたが、感染症なども考えると衛生面での配慮はあるに越したことはないと思います。水のいらないシャンプー、使い捨ての体拭きシート、おしりふき、携帯トイレなど、使用期限のないもので誰でも使うものはたくさんあっていいと思います。(仙台市青葉区・30代女性・教職員)

「家電品をいただけて助かりました」

私の場合は家が津波被害だったので全て諦めましたが、赤十字から家電品をいただけて助かりました。一番困難だったのは気持ちの切り替えでした。自分の現状を受け入れるつらさはありました。(仙台市泉区・60代女性・主婦)

電車がなかなか再開せず通勤がとても大変だった。(仙台市宮城野区・40代女性・会社員)

給湯器か倒れお湯使えずまた風呂場損壊で3カ月風呂入れなかった。隣近所、知人宅で風呂に入った。バスが動かず、地下鉄駅まで5キロの自転車通勤は疲れた。(仙台市若林区・60代男性・会社員)

ゆっくり休めない。避難所より、ホテルが良い。オムツがなかったが、分けてもらった。女性、子どものプライベートスペースを確保するようにする。子どもの離乳食などもあれば良い。あと、おもちゃとか気持ちが紛れるもの。(仙台市宮城野区・40代男性・会社員)

飲料水と電気がなくて困りました。(宮城県塩釜市・70代男性・自営業)

寒さ(仙台市宮城野区・50代女性・公務員)

東北大学病院を通院し始めたばかりで、臨時休業で薬ももらえず大変な思いをし、今も後遺症に悩まされている。ガソリンがない2000〜3000円分の給油のため、仕事もせずに12回も並んだ。仙台市内のアーケード街を歩いて営業しているお店があれば並んで喫食したり、食料品を買った。また米があり、水道が使えたので助かった。携帯型ソーラーパネル発電を持っていたのでなんとかスマホに充電出来た。ガスライターとマッチがあったので夜の明かりは、ろうそくと手動回転充電式とソーラー充電式の懐中電灯でなんとか過ごせた。カセットコンロ、反射式ストーブと灯油があり炊飯、湯沸かしや暖が取れ助かりました。とにかく夜は特に寒かった。(仙台市太白区・50代男性・会社員)

被災の3日後、持病の薬が切れてしまい不安だった。大事に至らなかったのは幸い。いまは、どこに行くにしても携帯している。これは必要と思う物はできるだけ、いつも持ち歩くことが安心につながる。(仙台市太白区・60代男性・会社員)

断水がつらかったです。皿にラップを巻いて、食器を洗う手間を省きました(個人的には、ラップの匂いが料理に移ってしまい、独特な風味が苦手でした)。(東京都・20代女性・学生)

生活費、リフォーム代金(いまだに払えない)。(宮城県石巻市・60代・無職)

関連リンク

関連タグ

最新写真特集