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かつて あのまちは (1)石巻・長面 子ども、地域で育てた 高橋正子さん

長面地区の自宅跡地に立つ高橋さん。「風景は変わったが、冷たい風はあのころと変わらない」と言う
長面地区にある北野神社末社・八雲神社のみこし渡御祭。地域の子どもたちが踊りを披露した=2009年7月14日

 東日本大震災の津波によって、石巻地方沿岸部では多くのまちが失われた。あれから14年。そこにあった街並みや自然、営みは人々の記憶から薄れつつある。当時の住民が思い出を語り、かつてのまちの姿を描き出す。(6回続き)

   ◇

■高橋正子さん(61)=石巻市小船越=

 長面に嫁いで来たのは24歳です。1987年でした。「観音講」という若い奥さんたちの集まりがあって、有無も言わさずに入れられるっていう。それがまずびっくりね。春と夏に集まってお食事をしたり、みんなでお出かけをしたり。「何それ」って感じでした。

 出産する前、観音講の人たちと一緒にお参りをします。出産したら、また彼女たちと一緒に赤ちゃんを連れてお参りします。だからみんな「あの時の子どもね」って分かるじゃないですか。みんなに育ててもらったんだと思いますよ、長面の子どもたちは。

 長面に来て初めてホタルを見たんです。夏の夜ね。家の裏がずっと田んぼで、子どもたちを連れて夕涼みをしてました。平成の時代に、田んぼでホタルが飛ぶってどれだけ水と空気がきれいだったか。よく点々とかで描く光のマーク。ホタルの光ってさ、本当にあんな感じなの。すっごく絵本の世界なんですよね。でも現実に見られたんだよね。

 カキだって大きくてプリプリして、本当にお手本みたいな。元々は嫌いであんまり食べられなかった。震災ちょっと前に初めて生で食べて、おいしいんだって分かったのが、長面のカキ。震災後によそのを食べる機会もあって、長面のカキが誇れるんだって初めて知りました。

 海水浴場には町内会とか子供会がよくバスで来てました。すごい遠浅だったからね、安心して泳がせられるっていうことで。週末は大型バスがひっきりなしだった。おばあさんが言うには「田舎の道のさ、信号もない交差点、渡れないんだよね」って。ちょっと言い過ぎなんじゃねえと思ったけど、それぐらい、たくさん来てた。

 そんな風に自然に恵まれていて、海をまじまじ見たりして、生き物もすごく身近に感じられる地域でした。何より穏やかだった。海も、まちも。

 そういう環境で、子どもたちが競争もなく、のどかに育ってるわけです。すると、小学校の野球チームとか弱いんですよ。よその学校に試合しに行って、負けて帰って来るじゃないですか。どの子どもも「学校が四角かったんだ!」って報告するんです。いつも大川小の丸い屋根と建物見てっから。

 雪が降るとさ、車道を雪かきしますよね。でもうちの方で雪かきを最初にするのは、子どもたちの歩道。地元の土建会社さんが子どもたちの通学のために、誰よりも早く雪かきをしてくださる。どんだけ愛されてたんだ、あいつら。

 それだけ子どもをみんなで育てたような地域なので、本当にね、あのことが信じられないんですよね。

 あの日、雪が降って寒い中さ、大川小までの道が通行止め解除になるのをみんな待ってたよね。子どもたちが帰ってくるって思ってた。帰ってきたのは子どもたちじゃなくて、ドロドロのランドセルとかさ、持ち物とか。

 ほのぼのとしてて、あったかくて。そのまちが一瞬にして奪われてしまって、その後もいろいろな部分で取り上げられたり、ネットで心ないことを書かれたりして…。親の気持ち考えたらさ、悔し過ぎたの。あのとき何もできなかったことをすごく恥じてるんです。だから今、せめて大川を正しく知ってもらいたいって、いっつも思ってる。

【高橋正子(たかはし・しょうこ)さん】
 1963年7月、石巻市湊地区出身。津波で自宅が流失し、同市小船越で生活を再建。2015年から公益社団法人みらいサポート石巻(現3.11メモリアルネットワーク)職員。市震災遺構大川小で遺族らが取り組む語り部の調整などを担う。

(漢人薫平)

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