「震災10年 あしたを語る」映画監督  岩井俊二さん 立ち止まって亡き人を思う

経営するロックウェルアイズでミーティングに臨む岩井さん。表現者として被災地に寄り添い続ける=東京都(同社提供)

 日常を根底から揺さぶり、多くを奪った未曽有の災禍に時が積み重なる。東日本大震災から間もなく10年。あの日を境に私たちの社会は何が変わり、何が変わらないままなのか。「復興」の先にはどんな未来を描けるのか。東北にゆかりの深い著名人が語る。

 <米ロサンゼルスにいて、東京のスタッフと電話中、東日本大震災が起きた。テレビのニュースは、東京まで大きく揺れた地震の震源地を東北と伝えていた>
 津波の映像を見たら、場所は仙台市若林区。子どもの頃に住んだことがあり、衝撃が大きかった。仙台の両親や妹と電話がつながらず、メールにも返事がない。2、3日後にようやく連絡がつき、ほっとした。
 被災地に足を踏み入れたのは5月。若林区荒浜、塩釜市、石巻市を回った。しいんとしていて、うっすらと波の音が聞こえるだけ。誰もいなかった。自分のカメラを持っていったが、作品を作ろうとは全く思えなかった。あの光景は、いまだに忘れられない。
 <震災後の第1作は2011年10月に発表したドキュメンタリー「friends after 3・11」。津波被災者、原発の危険性や弊害を訴える研究者らにインタビューした>
 東京電力福島第1原発事故で緊張状態が続いている中、専門家や被災地の友人、親類に話を聞いたり、仲間と情報交換したりしていた。ドキュメンタリーを作ろうと一念発起したというより、日本の今と未来の課題を考え直すため、確かな言葉や情報を持つ知人、友人を訪ね歩いた。
 小学生の頃に茨城県東海村の原発を見学して、見渡す限りの核廃棄物の黄色いドラム缶の山を見た。「原発を動かす限り出続ける」と聞いて青ざめた。米スリーマイルアイランド原発事故(1979年)、チェルノブイリ原発事故(86年)があり、東海村でJCO臨界事故(99年)が起きた。そして福島での原発事故。核のごみは増え続け、人類は後始末できないものに手を出してしまった。
 <NHKの震災復興支援ソング「花は咲く」の作詞を手掛けた。震災10年を前に、新たな映像を制作した。ピアノ独奏に合わせ、被災3県ゆかりの著名人が歌詞を静かに朗読する>
 日々新しくなっていくまちで、亡くなった大切な人の気配を常に感じていたり、忘れられなかったりしても言葉にはなかなか出せないという声もあった。被災地で話を聞き、亡き人に思いをはせて歌を作った。
 心に刻まれた震災の体験は一人一人違う。それぞれが向き合い、時には記憶を共有して考え続けることが未来につながる。
 「10年たって復興したよね」と、簡単には笑顔になれない部分を誰しもが持っているのではないか。止められないエンジンのように、(被災地を)開発し続け、しかも急ぎ過ぎていないか、自分の魂をどこかに置き去りにしていないか、大切にしていた人たちをふと忘れてやしないかと立ち止まり考えることも必要だ。
 その機会が3月11日という厳粛な記念日で「花は咲く」にもそんな思いを込めた。さまざまなバージョンが作られたが、今回は原点に立ち返ろうと思った。
 <昨年1月に古里仙台や白石市を舞台にした映画「ラストレター」が公開された。記憶や喪失、生や死をテーマに描き続けている>
 生まれ育ったところが震災で大きく傷ついたというトラウマ(心的外傷)的なショックは生涯忘れることはたぶんできないだろう。一人の表現者として被災地に寄り添っていきたい。いずれ震災をテーマに何か作ることができればと思っている。
(聞き手は村上俊)

[いわい・しゅんじ]1963年、仙台市生まれ。横浜国立大卒。93年「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」でテレビドラマとして初の日本映画監督協会新人賞。翌94年「undo」で映画監督デビュー。「Love Letter」「スワロウテイル」などを手掛け、2020年「ラストレター」で第12回TAMA映画賞最優秀作品賞。

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