「震災10年 あしたを語る」俳優・歌手 中村雅俊さん 心の復興を応援、笑顔届けたい

震災10年への思いを語る中村さん=東京都世田谷区の事務所

 日常を根底から揺さぶり、多くを奪った未曽有の災禍に時が積み重なる。東日本大震災から間もなく10年。あの日を境に私たちの社会は何が変わり、何が変わらないままなのか。「復興」の先にはどんな未来を描けるのか。東北にゆかりの深い著名人が語る。

 <東日本大震災の発生時、東京都内でドラマの撮影をしていた。駅に止められた電車の中にいた>
 車内にとどまっていいのか、ホームに出るべきなのか分からないぐらい、揺れがひどかった。

 揺れが収まった後に情報を確かめた。震源は出身地の宮城県女川町と緯度がほぼ同じだったので、津波が来るなと。小学生の時、チリ地震津波(1960年)で裏山に走って逃げた経験がある。寄せては引いていく津波を山の上から見た。

 18歳で古里を出るまで、津波警報が出て自宅の1階から2階に荷物を上げて待機することがしょっちゅうあった。今回はもっとすごい津波が来ると思った。悪い予想は的中してしまった。
<2011年4月中旬、震災後初めて古里を訪ねた。「女川の町は俺たちが守る」との垂れ幕を届けた>
 自分の育った家を見つけたけど、がれきだらけだったんでね。自宅の隣にあった印刷所、前の薬局は跡形もなかった。街は壊滅的で経験したことがない光景。親戚3人が亡くなった。物心ついた頃から遊んでいたのでショックだった。

 垂れ幕のメッセージは同級生と一緒に考えた。俺たちがやらないと駄目だろうという強い意識があった。

 人生を振り返ると、郷土愛にあふれていたわけではなかった。子どものときから、ちっちゃい街にいちゃ駄目だと勝手に思い込んでいた。東京への憧れが半端じゃなかった。高校卒業後、東京で一旗揚げたいとの決意があったから田舎を振り返らなかった。

 震災で被害を受けた街を見て、価値観が変わった。女川で育った18年間、ここじゃなきゃ俺は形成されなかった。地元の人間との意識が芽生え、俺が支援するんだという強い意志が生まれたのは確か。

 20歳ごろ、地元をイメージして制作した楽曲「私の町」がある。港や船、カモメなどの言葉が入った叙景的な詞で、実は暇つぶしで作ったような曲だった。

 震災直後に女川で歌ったら、町民が泣いてびっくりしたことがある。これほど心を揺さぶるのかと。人は歌に共感するじゃないですか。それぞれが歌詞を聞きながら震災前の姿がもうないんだと思い、涙を流していたのかな。将棋で言うと、「歩」の曲がいきなり裏返って、「金」に変わった感覚だった。

 <震災10年を前に、風化に対する危機感と復興支援への決意を新たにする>
 風化があるのは事実としてしょうがない。それでも忘れてほしくないという感覚がある。被災地に行ったり、こうやって話したりしたことが報道されれば、震災は終わってないんだなと思ってもらえる。それも復興支援の一つだなと。

 復興は進んでいる。ただ、手付かずの所もあって格差を感じる。インフラの完成が、復興のゴールではない。やっぱり被災者はどこかで傷ついている。心の復興に向け、これからが俺たちの踏ん張りどころ。子どもをはじめ、笑顔を増やすことに協力したい。

 被災地へ戻った人たちが朝、家の外で深呼吸をする。そして、まぶしい太陽を見て「ああ幸せだな」とつぶやけたら、一つの復興の形なのかなと思う。
(聞き手は吉江圭介)

[なかむら・まさとし]1951年、宮城県女川町生まれ。74年にドラマ「われら青春!」で主演デビュー、挿入歌「ふれあい」で歌手活動をスタート。「俺たちの旅」「恋人も濡れる街角」などのヒット曲がある。震災後に統合、誕生した東松島市鳴瀬桜華小の校歌も作曲した。

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