「あの日から」第8部 遺児 横山泰雅さん 母と同じ介護の道歩む

震災時に一夜を過ごした中浜小の前に立つ横山さん。校舎は震災遺構になった=6日、宮城県山元町

 お年寄りの食事を介助し、着替えを手伝い、入浴の世話をする。昨年から月数回の夜勤も加わった。
 「入所者に頼られたり、世間話をしたり。大変だけれど、やりがいがある」
 宮城県丸森町の横山泰雅(たいが)さん(20)は、母の背中を追うように介護福祉士になった。社会人3年目。福島県国見町の特別養護老人ホームで働く。
 母志保さん=当時(35)=は東日本大震災の津波にのまれ、犠牲になった。一家は海に近い宮城県山元町中浜地区で暮らしていた。志保さんは北隣の亘理町の海岸に近いデイサービス施設に勤務。いったん避難したが、書類を取りに戻り、巻き込まれたという。
 横山さんは中浜小5年生だった。鉄筋2階の校舎は海岸から約400メートル。授業中に揺れ、屋根裏倉庫に逃げた。倉庫内の段ボールに上がり、鉄柱をつかんで第1波に備えた。
 校舎を襲った津波は最大で高さ約10メートル。2階天井近くまで達した。「衝撃を感じ、頭が真っ白になった」。横山さんを含む児童ら90人は倉庫で一夜を過ごした。子どもを迎えに来た保護者もいた。月明かりの下、流された車や家々が消えた集落が見えた。
 「やっぱり現実なんだ。家族は無事だろうか」
 翌朝、自衛隊のヘリコプターで救出された。同居していた祖父母、5歳下の弟と避難所で再会し、父俊一さん(51)も合流した。
 お母さんだけ、いない。「連絡が取れないだけ」と信じ、父と避難所を回った。一日一日と過ぎ、絶望感が深まる。2週間後、遺体が見つかった。
 朗らかで活発な人だった。「ただいま」という声が響くと、家の中がパッと明るくなった。趣味はママさんバレーボール。休日は散歩やピクニックに連れて行ってもらい、パスタやホットケーキも一緒に作った。内気で人見知りの自分を引っ張ってくれた。
 震災の翌年、自宅を再建した丸森町に移った。中学2年の時、親の仕事を調べる授業があり、介護福祉士という職業を知った。
 中学3年生。「どんな道に進んだら、お母さんは喜ぶだろう」。同じ仕事を選ぼうと決意した。「生半可な気持ちではできない」と諭すケアマネジャーの父を説得。養成コースがある仙台市の私立高に通い、目標をかなえた。
 あの日から海が見られない。津波のニュースに今も呼吸が乱れる。それでいて、震災の記憶はあいまいになり、友人と話題にすることもなくなった。「日常が突然、崩れてしまうことを忘れてはいけない」。そう言い聞かせる。
 母には何と伝えようか。「残った家族でやっているよ。だから心配しないで」。口にしてみたものの、仕事は人間関係も含めてやっぱり大変だ。家族でけんかもする。落ち込み、愚痴をこぼしたい時もある。
 「しゃきっとしなさい。くよくよしないの」
 カラッとした明るい声が聞こえてくる。
 お母さんは、今も心の中にいる。(庄子晃市)

震災10年 あの日から

 東日本大震災を経験した一人一人に、それぞれの震災があり、災後の歩みがある。あの日からの軌跡をたどる。

震災10年 復興再考

震災10年 あの日から

復興の歩み

先頭に戻る