「あの日から」第10部 軌跡(3) 双葉・志賀一郎さん 「再びコメ作りを」願う

妻と孫を思い、自宅跡に花を手向ける志賀さん。コメ作りの再開を夢見る=1月21日、福島県双葉町

 津波をかぶったトラクターやコンバインの赤茶けたさびが10年の時を物語る。
 宮城県名取市美田園に暮らす志賀一郎さん(73)が1月21日、福島県双葉町の自宅跡を訪れた。妻さち子さん=不明当時(63)=と4カ月の孫仁美ちゃんの行方が分かっていない。
 「母ちゃんたちが逃げたのか確認すればよかったんだよな」
 この日は、さち子さんの誕生日。「双葉には150回くらい来たけど、いつも月命日近く。母ちゃんの誕生日に来るのは初めてだなぁ」。手作りの供養台に花を手向けた。
 あの日、志賀さんは、さち子さんと車2台で東京の物産展に出すコメや野菜を隣の大熊町に運んでいた。さち子さんは自宅に戻り、仁美ちゃんと東日本大震災の津波にのまれたとみられる。押し寄せた津波は約5メートルの高さだった。
 3月12日早朝、長男隆昌さん(50)夫婦と自宅周辺へ捜索に向かった。自宅は東京電力福島第1原発から4キロ。原発事故に伴う全町避難指示が出たため、町を離れざるを得なかった。
 川俣町やいわき市、郡山市など福島県内を中心に転々とした。多くの町民が避難していた猪苗代町のホテルでは、知人家族を見掛けるたびに涙が出そうになった。
 2人を捜すため、避難先から相馬市の遺体安置所に通った。流された農耕機を並べ直した場所を捜索する警察官の姿に「そこにいるはずがないのに」と思った事もあった。申し訳なさもあり、口にはできなかった。
 「『想定外』とかではなく、起こしちゃいけない事故だった」。3月12日の捜索時間はわずか30分。手を尽くせなかった後悔が消えることはない。
 ようやく落ち着いたのは2011年夏。次女が住む名取市のアパートに引っ越した。7年前に市内に一戸建てを構え1人で暮らす。
 「避難というか、もはや移住」と言いつつ、名取市から80キロ離れた自宅跡へ毎月、捜索などのため車で通い続ける。自宅跡近くの墓地には1867(慶応3)年から刻まれた墓誌が横倒しになったままだ。近く名取市に墓を移すが、「2人の物は何も入れられない」と嘆く。
 約15ヘクタールの水田でコシヒカリを育てる専業農家だった。減農薬栽培に取り組み、2010年産米の食味コンクール国際大会では特別優秀賞を受賞した。「いっちゃんのこだわり米」と名付け、直接販売も手掛けた。
 5年前に農地の一部を手放した。自宅跡は震災の記憶を伝える住居跡地として、県や国が整備する県復興祈念公園の一部になる。「先祖の土地だから申し訳ないが、仕方がない」と言い聞かせる。
 映画やテレビを見て過ごしてきた。映画のDVDは1000枚を超えた。「でも俺やっぱり、農業ばかなんだよな」。3年ほど前から農業雑誌を手に取るようになった。農機具会社の勧めで除草に使う農業用ドローンの研修も受けた。
 自宅跡周辺の空間放射線量は毎時0・06マイクロシーベルトで原発に近い割に低く、旧役場の3分の1以下。昨年、80代の元町民の男性が南相馬市でコメ作りを再開したと聞き、意欲が高まった。
 将来的には双葉町に一時的に滞在したり、近隣自治体に移住したりすることを考えている。土から離れて10年。「自分で作ったコメが食いてえなぁ」。故郷へ通う道に、農業再開への夢を重ね合わせる。(横川琴実)

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