軌跡(4)宮古・玉沢邦彦さん 両親の米穀店、復活が夢

防潮堤の上から田老野球場を見つめる玉沢さん=2月21日、岩手県宮古市田老

 かつての街並みが、ふとグラウンド上によみがえる瞬間がある。岩手県宮古市田老地区の会社員玉沢邦彦さん(51)の自宅は田老野球場の三塁ベース付近にあった。

 野球場は東日本大震災の津波で被災し、2016年に移転、再建された。一帯は家々がひしめき、住民たちの笑顔が交差していた。地域ぐるみの愛情を受けて玉沢さんは育った。

 両親、妻、2人の子どもと6人暮らし。「みんなが普通に生活していた場所なのに…」。かけがえのない日常を、津波はひとのみにした。

 小、中学時代は白球を追い掛けた。今も、田老野球場を本拠地にする草野球チームのメンバーだ。

 父福男さん(70)と母幹子さん(69)=年齢はいずれも当時=を亡くした。当日朝、居間でうつむき、寂しげだった幹子さんの表情を覚えている。どこか声を掛けにくい空気をまとっていた。

 「事故に遭わないで」。幹子さんは時に、玉沢さんがどきりとするような言葉を口にした。「あの日も何か予感していたのか」。そのまま仕事に出掛けたことを悔やんでいる。

 午後2時46分、大きな揺れが起きた。市中心部の職場にいた玉沢さんは子どもたちを高台に避難させた後、国道45号を自宅に急いだ。トンネルを抜けて到着する間際、黒い波が防潮堤を越えた。

 「もう少し先に進んでいたら、自分も…」。家にいたと思われる両親は行方不明になった。後日、軽トラックの中から遺体で発見された。

 「田老の力になりたい」。変わり果てた故郷の姿に気持ちが奮い立った。復興を後押しする地元のNPO法人の活動に加わった。

 仮設住宅には入らず、市内陸部に家を借りた。田老の会合に通い詰め、帰宅時間が午後10時ごろになることもしばしば。気が付くと、以前のように家族と過ごす時間を確保できなくなっていた。

 擦れ違いの生活は思わぬ事態をもたらした。離婚。両親、家族、懐かしい風景。あまりに大きなものを失った。仕事に没頭することで、日々の暮らしをつないできた。

 あれから10回目の春を迎える。先人たちと同様、壮絶な津波被害を乗り越えて、住民たちは歩みを進めている。玉沢さんもその一人だ。「俺を心配しているだろうな」。空の上の両親がどう思っているか、気になる。でも仏壇の前で弱音は吐かない。

 夢は、3代続く米穀店を営んでいた両親の店の再建だ。計画はまだ具体化していないが、諦めるつもりはない。「いつかきっと。そうすれば自分の人生の中で、何か一つ残せる気がする」

 心の支えは野球。田老野球場に歓声が響くシーズンが近づいた。玉沢さんも、にぎわい創出に一役買う。絶望も希望も、全てひっくるめて、これからも田老のために。生きる意味が、そこにあると信じている。
(佐々木貴)

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