「継がせなかったら良かったな」 言い残した父を追い続けて

ビニールハウスで栽培するブロッコリーの生育状況を確かめる樽川さん=2日、須賀川市大桑原

 「農業、継がせなかったら良かったな」

 父親の最期の言葉が今も深く心に刻まれる。須賀川市大桑原の専業農家樽川和也さん(45)。8代続く農地4・5ヘクタールで、コメと野菜の複合栽培に取り組む。

 幼い頃、朝から晩まで作業の手を休められない父親の苦労を間近で見た。農繁期でもある夏休み、家族で海水浴に連れて行ってもらえる友人がうらやましかった。大学卒業後、一度はいわき市の企業に勤務した。

 体調を崩した父親を気遣い、実家に戻ったのは30歳の頃。母親(71)と3人で農業に明け暮れた。父親のそばで仕事を学んだが、下働きだけで「主体的に仕事することはなかった」。

 農業に文字通り、命を懸けた父親。学校給食用にキャベツを手掛けているのが自慢で、無農薬で手間暇かけて育てた。「子どもに食わせるのって、すげえいいぞ」。いつも誇らしそうに語っていた。

 だから2011年3月12日、東京電力福島第1原発1号機の建屋が水素爆発する映像をテレビで見て、がっくりと気落ちしたようだった。14日に3号機、15日には4号機でも水素爆発。口数がめっきり減り、吐き気を訴えるようになった。

 23日、須賀川産キャベツの出荷停止を告げるファクスが自宅に届く。市内の子どものために丹念に育てた7500株が放射能にまみれ、行き場を失った。

 その日の夜、父親が息子に語ったのが「継がせなかったら良かった」という言葉。翌日の朝、自宅裏で自殺した。64歳だった。

 「一体どうすりゃいいんだ」。樽川さんは当時、いら立ちを独り言にしてぶつけた。

 種まきや追肥のタイミングを決めてくれた父親を突然失い、どう農業を続ければいいのか分からない。心労がピークに達した。

 頼りになったのが、父親の作業日誌だった。

 晩酌する前に決まって広げていた日誌には、種まきや追肥の記録がびっしり書き込まれていた。一字一字丁寧に書かれた父親の文字をたどり、勉強した。「おやじが死んだから何もできない、と思われるのが一番嫌だった」

 有機肥料の農業を引き継ぎ、ビニールハウスでジャガイモやブロッコリーを作った。中でも近くの直売所に出荷するトウモロコシは、甘くて評判を集めた。「おいしい」と言ってくれる買い物客とのやりとりも、農作業の励みになった。

 必死にめくった父親の日誌も、最近は開くことがなくなった。自分の感覚で追肥や水やりを判断する勘のようなものが身に付いた気がする。「一人前になるには10年かかる」。まさに父親の言葉通りになった。

 言葉通りにならなかったこともある。「継がせなかったら良かった」。亡くなる前日のあの言葉だ。死に物狂いで駆け抜けた10年だったが、悪いことばかりでもなかった。

 「出世を気にせずに取り組める農業は、俺の性に合っている」。自慢の農産物を待ってくれるお客さまに届けたい、おやじの誇りが染み付いた農地を守りたい-。天国のあなたに、心でそう語り掛けている。
(神田一道)

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