歌壇・佐藤通雅氏、俳壇・高野ムツオ氏対談 「亡き人の分まで歌う」「沈黙の力に思い託す」

 東日本大震災発生から10年に合わせ河北新報社は全国から震災を主題とした短歌、俳句を募集した。河北歌壇、俳壇の選者4人が選を行い、特選、入選、佳作が決まった。全国からの震災詠応募に心から感謝を申し上げます。選考結果と共に、歌壇選者の佐藤通雅氏と俳壇選者の高野ムツオ氏の対談の詳報、歌壇選者の花山多佳子氏と俳壇選者の西山睦氏の寄稿を紹介する。

河北歌壇、俳壇の10年を振り返る高野氏(左)と佐藤氏

 佐藤 新型コロナウイルス禍で大変な時に震災詠が関心を呼ぶのか心配していたが、作品が広い地域から送られてきたことに驚いている。いまだ被災地は傷ついていると分かった。

 高野 北海道、熊本と各地で大きな地震があり、災害が増えていることも影響しているのだろう。放射能への不安もある。「自分事」という意識で生活し作品化する人がたくさんいて、その意識が今も継続している。コロナも放射能も目に見えない不安という点が共通している。ここまで科学が進んだ時代で見えない恐怖に脅かされることはなかった。私たちの意識も変わったし短歌や俳句にも影響している。作品はコロナ禍の影響も受けている。

 ―震災詠を選考し感じたことは。

 佐藤 10年前は親は助かったが家は失った、自分たちはたまたま生き残ったという感じの歌が多かった。それが10年たってようやく子どもや親を亡くした人が歌にできるようになった。特に子どもを亡くした方。亡くなった人の分も歌うという緊張感のある作品が寄せられた。亡き人を代弁したいという動機だ。言えなかったことを言えるようになってきた。

 高野 いつの時点で表現に立ち向かえたかは千差万別だ。震災後すぐ表現に関わった人間もいるし、数年たってから戻った人もいる。私や佐藤さんは震災当日から。当日から俳句を作っていたのはまれだったと後で知った。「もっとやるべきことがあったのでは」と言われたこともあった。

 だが、自分の危機に対する状況判断はあった。私も被災者だったが命を脅かされる状況ではなく、親や子が亡くなったわけではない。切羽詰まった立場ではなく、被災の恐怖に震えながらも俳句に携わることができた。子どもを亡くしたり家を失ったりと悲惨な経験をするとなかなか歌や句に立ち戻るわけにはいかない。今回、初めて戻った人もいるのだろう。

 NHK俳句3月号の座談会に参加した。(同席した)仙台市出身の俳人千倉由穂さんは「自分の俳句は震災に向き合うことができなかった」と語った。震災当時、他の高校生も同じようなことを言っていた。自分は少し怖い思いをしたが無事だった。そんな立場の人間が果たして大震災を俳句に詠んでいいのか。詠むことで被災者を傷つけ、間違った表現を発信しないか不安だと。

 千倉さんもずっと句を作っていいのかと考えあぐねていた。昨年7月、彼女を震災遺構の仙台市荒浜小に連れて行くと「やっぱり(震災に)向き合って作ろう」と思ってくれた。NHK俳句3月号にその作品が載っている。彼女は震災当時、大学進学で東京にいたが、当日は仙台に帰郷していて震災の悲惨さを目の当たりにしている。だからこそ本当は作るべきだったのだがやっと覚悟ができた。

 亡くなった人への追悼の思い、亡くなった人を代弁する立場、言葉によって亡くなった人を呼び出すという行為として俳句や短歌があったのではないか。死と生は紙一重のところで生じるのだということが、この平和な世の中で現実に起きる。そんな死と生の在り方を人々は考え始めたのではないか。

 例を出すと、打ち上げ花火。震災前は美しいものという気持ちでしか見ていなかった。震災以降、少なくとも被災地の花火大会に限って言えば、人々は「あの(津波が来た)海で花火が上がっているのだ」「亡くなった人の魂が一緒に見ているのではないか」と思うようになった。死が身近になったことが俳句や短歌に反映されている。

 佐藤 短歌には歴史的にその時代の出来事を歌うという機会詩の機能がある。歌を作り慣れている者には「57577」が勝手に作動する。震災時に歌がどんどん出てきたのは「57577」が肉体化して出てくるという特性があるからだ。

 高野 それは短歌の特性だ。私も俳人にしては例外的に(震災時に)たくさん作った方だが、佐藤さんに聞いたら「次から次へと湧き出てくる」と言っていた。

 佐藤 大体が駄作だったが、私自身、震災の時は次々と歌が出てきた。俳句ではあまり出てこなかったのは「575」と「57577」の韻律の性質の違い。高野さんの震災句に対して「無季の高野ムツオもさすがに季語に目覚めた」「保守になった」なんて言う俳人がいたことに驚いた。「ムツオもついに陥落した」というイメージがあったようだ。

 高野 私としてはそんな意識はない。私は季語が入った句もたくさん作っている。

 佐藤 その時に季語について考えた。どんな震災であっても季語が詩形を守ってくれると考える俳人がいたが、私は違うと思った。東京電力福島第1原発事故の問題がある。炉心溶融(メルトダウン)があり、仙台でも逃げ惑う人がたくさんいた。栗駒山もイノシシもシカも魚も汚染された。「原発は命を培ってきた自然観を覆す」という感覚を持った。それで私は俳句のシンポジウムで「季語が陵辱された」と言った。

 自然が1回の事故で壊れてしまう。放射能が完全に消えるのに何百年もかかると言われる。四季がどうのこうのを通り越し、人間の自然観のようなものが消えるかもしれないと危機感を持った。10年たったいまもその考えは変わっていない。

 原発事故から10年のタイミングで東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)を再稼働させようとしている。震災直後、福島の人たちは投稿どころではなかった。宮城では河北新報にどんどん寄せられた。早稲田大の学生が卒業論文で震災後の全国の新聞歌壇を調べたら、河北歌壇が質、量共に1番だったそうだ。

 ―被災地にある河北歌壇、俳壇が果たした役割は。

 佐藤 震災直後に寄せられた作品は「とにかく生き残った」「亡くなった人の気持ちを代弁しよう」という強い思いがあった。生と死に分けられ、なぜ自分は生き残ったのかという割り切れなさがひしひしと感じられた。

 高野 発生直後の投稿者は元々短歌や俳句に親しみがあった人が中心だろう。平静になってくるにつれ、その他の人々にも言葉で表現したいという欲求が生まれた。雑誌に普段投稿している人、自分なりに発信する装置を持っている人はそこで自分の表現を示せばいい。だが一般のつつましい生活の中で俳句や短歌を親しむ人にとってはそうはいかない。句会も歌会もない状況で2011年5月1日、歌壇、俳壇が復活した。「自分の作品を発表できる場が戻ってきた」という気持ちだったと思う。河北歌壇、俳壇がつつましい暮らしの中で歌や句に親しむ人たちの受け皿となった意義は大きい。

 佐藤 スマートフォンや会員制交流サイト(SNS)で発表できないアナログ世代が河北歌壇、俳壇の存在に気付いた。宮城や岩手から、今まで見たことのない名前で続々と送られてきた。福島はそれどころではなかったのだろう。海を詠んだ歌も多かった。海の近くに住んでいた人、遺族からも届いた。何かを表現せずにはいられない人たちだった。

 高野 俳句、短歌を発表するさまざまな場がある。「気仙沼海の俳句全国大会」が震災の翌年に再開し、多くの人が作品を発表した。作品を評価し合い、話し合い、泣きながら「やっとそういう時期が来た」と喜んだ。

 佐藤 その時に気付いたことがある。専門誌で震災特集を組んでいたが、(紙面構成が)与謝野晶子はどうした、関東大震災の時はどうしたと過去との比較的な内容ばかりだった。被災圏と圏外では感覚が全くずれていた。それならばこちらから発信しないと伝わらないという思いが、震災を考えるシンポジウムを始めるきっかけになった。

 高野 短歌は元々機会詩。その場その場で事件事故や大災害に対応できる。だが俳句はそういうことにふさわしくない。俳句は自然の豊かさ、良さを歌うものという考え方がある。米中枢同時テロで短歌のいい作品がたくさん出たが、いい句は生まれなかった。阪神・淡路大震災でも兵庫県の俳人たちは対応しいい作品を送り出したが、他県の俳人の関心は低かった。

 だが東日本大震災後、全国的な広がりの中で俳句を作ろうという動きがあった。総合誌もある程度対応してくれた。「励ます俳句」を募集するとたくさんの人が寄せてくれた。「短歌や俳句で『励ます』なんて作り方があるのか」という批判もあった。編集者サイドとしてはそういう企画は当然あっていい。問題は要請に応じた人がどういう目線で俳句を作るかだ。被災者と同じ立場、同じ目線で被災者に同化しながら作品を作る。それが人災の経験を詠み、時宜を反映した優れた俳句になる。心に伝わるのは被災者に寄り添った俳句だ。

 東日本大震災以前は戦争や関東大震災は俳句にならないという流れがあった。だが東日本大震災を契機にさまざまな人が災害に向き合い、俳句を作ってきた。大きな変化だと思う。

 佐藤さんの「季語は陵辱された」は俳壇で話題になった。「季語は陵辱されたから使い物になりませんね」と受けとると季語の世界そのものを否定することになる。川や海や山は汚染されたが全てがなくなったわけではない。生じた危機意識や不安感を季語の中に包含することで、季語の世界が深く広くなっていくのではないか。私の場合は、例えば「桜」。「放射能に汚染されたのではないか」「死者の魂を包んでいるのではないか」と新たな見方が加わり季語の世界が深化した。新しい物の見方をプラスすることが季語に可能なのだと思っている。佐藤さんの指摘は貴重であり、俳人にとって避けては通れない。

 ―河北歌壇、俳壇に話を戻す。

 高野 河北俳壇が再開した11年5月1日に載せたのが佐々木智子さん(仙台市)の<震災後また朝が来て囀(さえず)れる>。大震災という危機で二度と幸せな朝は来ないのだろうか、暗闇の世界が続くのではないかという思いがあって朝が来たきた。そして小鳥のさえずりが聞こえたと。この人は震災後福島に引っ越した人だと思う。福島で被災のことを詠んでいる。

 佐藤 句と歌の対比で言うと、今回は「短歌は俳句に負けたな」という感覚だった。短歌は歴史的に機会詩の機能を持つので、大きな事件があると自然にどんどんに出てくる。だから、震災詠も読みなれている面がある。そんなとき、震災時に釜石市にいた俳人照井翠さんの句集「龍宮」を3・11後に読んだ。俳句で初めて泣いた。<喪へばうしなふほどに降る雪よ><春の星こんなに人が死んだのか>。季語がはっきり変わっている。今まで季語に身を休めていたのが緊張感を持つようになった。私も俳句の読み方が変わった。

 ―震災詠におけるプロとアマチュアの違いは。

 佐藤 区別は一切考えなかった。「震災詠歌人」という名称でくくられるプロはいなかった。河北歌壇に寄せられた震災の歌は文学作品としてもすごい。大震災に遭うと、何とか言葉を出そうと思っても心の奥までは表せない。河北歌壇の作品はそれを内包させている。言えないことを含んでいる作品という意味ではプロもアマも関係ない。

 ―当事者とそうでない者の違いはあったか。

 高野 俳句も佐藤さんの指摘と同じ。俳句や短歌は民衆の詩だから自分たちが生きている場で表現すればいい。有名無名に関係なく、優れた作品がどちらにもたくさんあった。しかし、その作品を句集としてまとめられる人とそうでない人がいた。そんな無名の人のために宮城県俳句協会で公募句集「わたしの一句」の企画を立ち上げた。同じ意味で河北新報が震災5年後に発刊した歌集「震災のうた」は非常に価値がある。河北新報社にはぜひ震災句集も作ってもらいたい。1冊の本になればたとえ1句、1首でも無名の人の作品集になる。

 当事者性だが、どこからどこまでが被災地なのか区別が難しい。思いを込めることで被災者としての立派な言葉になる。金子兜太の句に<津波のあとに老女生きてあり死なぬ>があった。あれはテレビを見て作られたもの。かつてテレビ俳句は否定されたが、想像力を働かせることで被災者の気持ちを受け取った言葉になる。極端に言うと被災地にいても「自分は関係ない」と思った途端に被災者ではなくなる。原発事故はまさにその典型的なケース。考えようによっては世界の全ての人が被災者になりうる危機だ。

 ―東京にいることに負い目を感じている歌人もいる。

 佐藤 それをつなぐのが想像力。私は区別はしない。遠くにいても考える人は考える。

 高野 当事者でないと作ることにためらいが出る。私も阪神・淡路大震災の時に依頼があったが作れなかった。作っていいのか、被災者の気持ちに添うことができるのか、傷つけるのではないかというデリケートな問題があったからだ。花山多佳子さん(河北歌壇選者)が「震災を表現していいのだろうか」と問い掛ける気持ちはよく分かる。最後は「私は短歌しかない」「俳句しかない」と開き直ってずうずうしく作るしかない。

 ―被災地からの作品にはリアリティーがある。

 高野 想像力は現実とつながっていないといい作品にはならない。

 佐藤 被災の情景を見ていることが絶対ではない。想像力や客観的な目が必要だ。被災地にいるが故に見失うこともある。震災直後は電気がなく全体が分からなかった。今も「あのとき見えないことがあったのではないか」と思う。

 高野 「どのように見るか」という問題だろう。大震災によって地方と中央、東京との格差、差別が1000年前と同じように続いていたと改めて分かった。何が見え、見えなくなったかを突き詰めていくと大きいテーマになり得る。

 ―集まった震災詠で注目した作品は。

 高野 (河北俳壇選者の)西山睦さんが選んだ1席の西島陽子朗さんの作品。今いる場所を安住の地にしなければならないのか、本来の安住の地は違うのにという気持ちとかすかな希望が季語に象徴されている。

 時空を感じさせるのは、仙台市宮城野区の青木敏浩さん。今の春日は長い10年間の繰り返しが重なって差しているのだと見てとれた。2席の相模原市の平渡由美さんは帰ることなく亡くなった人の句。ストレートな言い方で季語の初桜が効いている。語らず沈黙の力に自分の思いを託している。

 佐藤さんが言う「俳句の方がいい作品が生まれた」の一因は、「後は想像してください」という形式が未曽有の被災に対し力を発揮したからではないか。

 10年たった今、新たな困難、悲しみが生じている。西山さんの2席もそうだ。<此の先のさらに十年―>はこれまでの10年のつらさを踏まえた上で作者の年齢を考えた時、「この先をなんとか生き抜かなければならない」という気持ちが込められている。「つらい」「さみしい」「悲しい」「帰りたい」という言葉を添えるほど、作者の気持ちと乖(かい)離(り)していく。だが俳句という短い形式によって、読む人が被災地にいてもいなくても、自分の体験や生きざまと照らし合わせることで句の世界がどんどん広がっていく。

 西山さんが選んだ3席もすばらしい。亡くなった人たちに帰ってきてほしいという魂への呼び掛け。どんな状況に当てはめて読んでも十分に伝わる。「幾万」の言葉は戦争で亡くなった人にも当てはまる。普遍性を持って伝えることで言葉そのものが豊かになっていく。

 佐藤 象徴的な作品が1席の鈴木洋子さん(石巻市)。言葉にできない思いがいっぱいある。18歳以下で感心したのは仙台市青葉区の佐藤栞樹さん。「傷が消えない」という率直な気持ちが出ている。4席の小形愛美さんは時間の差の表現がすごい。震災当時に自分がいた公園に震災を知らない子どもたちがいる。あの日の自分と新しい新しい世代がドッキングしている。

 皆さんの河北歌壇、俳壇への「ほれかた」もすごいと特記しておきたい。常連の島田啓三郎さん=(95)、宮城県山元町=は注目度が高い歌壇のスターだった。最近1年間は病気で休んでいたが昨年12月に復活した。河北には「島田さんはどうしてますか」という応援が届く。これだけ支持があるのは初めてで、これも河北歌壇の特色と言える。月刊誌の短歌研究3月号に特集が載るほどだ。

 ―彼は二つの戦災と大震災を経験している。農業をやっていたが全てを失い震災後妻も亡くした。被災者の象徴的な存在ではないか。読者が自分の苦しんでいる姿を彼に投影し、生きる力に変えていった。

 高野 島田さんの作品には色気とユーモアがあるのでファンがたくさんいる。東松島市で家を流された上田由美子さんは、島田さんの作品に感激して文通までしていた。他にもこういう交流はあるはず。「この間の作品良かったね」「最近見ないね」といったやりとりは全国紙ではあり得ない。河北歌壇、俳壇にはコミュニティーがある。俳句をやる者同士というのは旧知の仲のように話すものだ。読者は大震災を契機にした作品で結び付いた島田さんを自分の祖父や父親のように思っている。

 佐藤 今回の対談で触れておきたいのは投稿数と読者数のこと。短歌は毎週200通以上、俳句は300通以上寄せられる。投稿者が300いるとしたら、読んでいる人は5倍はいるだろう。河北歌壇、俳壇の場はこのように広い。

 高野 (選者をしていると)「読んでます」とか「面白いですね」とか言われる。特選になったら親戚やあちこちから電話が来るという話も聞く。今はコロナ禍で外に出られない。1人暮らしの人もたくさんんいる。一方通行のテレビで情報や娯楽を得ること以上にこういう小さな言葉の器から「こんな気持ちなんだろうな」「私もこんな気持ちだ」といった無言の会話を交わしている。この会話は活字でなければできない。

 佐藤 コロナ禍以後、短歌は選者を困らせるほど新人がどっと増えた。何かをやりたい、つながりたいという気持ちの表れだろう。また、この10年で被災地の女川町出身の歌人や俳人が良い作品集を出している。今後も被災地内外を問わず優れた震災詠を作る人が出てくると思う。

 ―震災は短詩型文学に重要なテーマとして残るか。

 佐藤 自然の猛威に10年という時間は関係ない。自然災害は何度も更新されていく。原発事故は手つかずのままで、さまざまな問題が生まれている。若い人の結婚問題や子どもの甲状腺がんなど福島の隠れていた問題がこれから出てくる。これらも大きな一つのテーマになる。

 高野 震災を詠むことは震災を題材にすることではない。震災が起きた場所で日常を詠む。原発もそう。事故の不安、未来への恐れを抱きつつ生きる日常の中で詠む。その日常は覆すことはできない。

 私たちの思いに素直に従う限り、自然を慈しむ姿は続いていく。震災や福島の問題はわれわれが死んだ後も詠むべき大きなテーマとして残る。

河北歌壇のレベルの高さを説く佐藤氏

[さとう・みちまさ]1943年奥州市生まれ。東北大教育学部卒。66年に文芸思想個人誌「路上」を創刊。89年9月から河北歌壇選者。71年に日本児童文学者協会新人賞、2000年に宮沢賢治賞、12年に「強霜」で詩歌文学館賞短歌部門を受賞。仙台市青葉区。

季語の世界の深化について語る高野氏

[たかの・むつお]1947年栗原市生まれ。国学院大文学部卒。「小熊座」主宰。2001年8月から河北俳壇選者。1994年に現代俳句協会賞、2014年に「萬の翅」で蛇笏賞、21年に河北文化賞。現代俳句協会副会長、日本現代詩歌文学館長。多賀城市。

他にない磁場がある 歌壇・花山多佳子氏

 この10年の河北歌壇を見ると数は減少しても震災の歌は脈々と歌い継がれているのを感じる。他のところにはない磁場が、ここに在る、という思いが強い。

 特に被災地では、その後の暮らしの中でのさまざまな復興の状況や、変貌してゆく風景などが、短歌で記録されている。その記録に今の思いが重なる。震災以前の暮らしを歌から知っている人も多い。

 新聞歌壇は、その場の一首一首であるけれども、一人一人の作者の線というものが、おのずと浮き上がって見えてくる。

 この人は被災して、お母さんを亡くして、避難所暮らしが続いて、何年目に移り住んで、とか。ある作者は、同じ海岸を定点観測のように詠み続けている。

 震災以降に原発事故の被災地から投稿し始めた作者もいる。繰り返し繰り返し原発に失った村を詠む。除染作業の折々を詠む。当時は詠めなかった家族や子を亡くした悲しみを後年、ふいに投稿してくる人もいる。歌を初めてつくったのかもしれない。日常の平穏な歌が多くなった中に、そうした歌がまじる。

 日常と震災がまじり合っている、そういう場なのだ。同じ作者だって、日常の歌を詠みつつ、あるときは震災を詠む。生きているってそういうことだと思う。
読者も、或(あ)る一首にふいに呼び覚まされることがあるだろう。痛みの共有、慰謝、あるいは知らなかったことの発見が、新聞歌壇には満ちている。俳句や短歌という短詩型の強みである。

 一方で型のあるゆえに、震災という「事」と「思い」がパターンとして繰り返されるという難もある。今回の募集にも、その危惧はあった。でも、その中の癒やしがたい哀切、そして若い人の体験の重さ、など忘れがたい歌が多くある。

 2019年11月には台風の水害により、宮城県丸森町など震災の被災地が襲われ、その歌があふれた。そしてコロナ禍の歌が多くなった。それは震災を忘れることではなく、あまりにも重なる辛苦の中で、文明や生活、人間の生を見つめる歌になっていっているような気がする。そう感じさせる何かをこの頃は河北歌壇から感じるのだ。

花山多佳子氏(歌壇)

[はなやま・たかこ]1948年東京都生まれ。同志社大文学部卒。在学中に塔短歌会に入会。2004年2月から河北歌壇選者。07に「木香薔薇」で斎藤茂吉短歌文学賞、11年に「雪平鍋」で短歌研究賞、20年に「鳥影」で詩歌文学館賞を受賞。千葉県柏市。

さみしさ抱え生きる 俳壇・西山睦氏

 募集句を読むと、忘れていたあれこれが思い出され、まさに波のうねりのように皆さんの気持ちが流れ込んできた。10年経たなければ詠めなかったこと、また死者を悼む心の深さ広さを感じる。

 震災によって今まで俳句の言葉として多用されなかった「瓦礫(がれき)」「仮設(仮設住宅)」「フレコンバック」などが津波の跡に置き去りにされたように詠まれてきた。震災直後に詠まれた句は悲惨さ比べではなく「復興」へとかじを取った句であり、自分を励ます一句であった。

 2年位が過ぎると「瓦礫」が薄れ、ほのぼのと行事を楽しむ様子や「復興屋台」が登場する。4、5年経つと震災は「遺構」として詠まれ、その後は、福島の被ばくへと移っていく。そして<閉じ込めた胸の三月動き出す 岡田とみ子>(2020年4月5日)と10年の時の表層を詠むかに見えていた俳壇に、10年の重みを吐露する句が現れた。

 新聞俳壇は時代に敏感でその流れも速いが、その底流には忘れざる重さも同時にある。

 歌壇、俳壇で島田啓三郎さん(宮城県山元町)を知った。仮設住宅に入られ、その後の消息を親しく拝見している。<わが余生菊に任せてしづかなる>の句が寄せられた時はホッとしたと同時に「季語」の有り難さを実感した。菊作りができるのは、心の快癒につながるものとしてある。これも季語の力、俳句の力と思っている。

 私は震災時「言葉は命」を実感した。地震さなかに遺言と思って投函したという泥付きの封書や受話器の中の死の無音に、そのことは骨身にしみた。

 本当の悲しみは「言葉」の外の無言にあることも知っている。俳句は無言を抱えた大きな器である。十七音の背景にはそれこそ人類の記憶が込められている。入選にいただいた<仮の地といふさみしさに風花す>の仮の地は地球かも知れない。互いにさみしさを抱えながら生きるのは普遍である。

 傷を抱えた心に10年の風化はない。より深く沈み、時折上澄みのように言葉になる。こうして震災は詠み継がれてゆくことと思う。

西山睦氏(俳壇)

[にしやま・むつみ]1946年多賀城市生まれ。早稲田大文学部卒。阿部みどり女や八木澤高原、蓬田紀枝子の後を継ぎ、2003年から「駒草」主宰。04年5月から河北俳壇選者。俳人協会理事、日本現代詩歌文学館評議員。川崎市。

[選者詠]

〈佐藤 通雅〉
生の側に残され砂を行く者はハマヒルガホの低きに逢ふも

〈高野ムツオ〉
三月の波に金泥なす日なし

〈花山 多佳子〉
貼る地図の常磐線を柏よりいくたびなぞる ただ指にして

〈西山睦〉
うぶすなは渚のやうに草萌ゆる

震災詠(全国公募)入選・佳作
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