震災詩歌 詠み人たちの10年(中) 色あせぬ大島 遠い記憶

 坂道を上って小学校の前に出ると、気仙沼市内を一望できる。海の向こうには、遠く大島が見える。毎日散歩中に立ち止まり、離れた故郷をしのぶのが日課になっている。

 菊田島椿(とうしゅん)=本名・菊田信一=さん(93)は、東日本大震災まで80年以上を大島で過ごした。津波で自宅が流され、現在は市本土の九条地区に居を構える。

 2011年3月11日は胃がん手術を終えて本土の病院を退院し、大島へ帰る日だった。午後2時半発の連絡船の中で地震に遭い、大島着岸後に高台に避難した。

俳句を手帳に書き留める菊田さん=12日、気仙沼市九条

 やがて襲来した津波は島の西側と東側から押し寄せ、合体して島を二分。全てを流した。「かつて島を三つに分ける津波があった」。言い伝えのような光景を目の当たりにし、「俺の家も駄目だ」と直感した。

 自宅のあった場所には残骸すらなかった。海から100メートルも離れていなかったと震災後に気付いた。

 30代から一筋に取り組む趣味の俳句も、震災後さっぱり浮かばなくなった。「いかに生きるかを優先させた」。九条の三男宅に身を寄せ、生活が落ち着いてから徐々に創作を再開した。

海は恐ろし      
海は懐かし      
今朝の秋 

 11年8月。立秋の日に九条小の前から海を眺めていると、自然と言葉が浮かんで来たという。

 「津波は恐ろしいけれど、小さい頃から育った海は懐かしい。矛盾した感情だが、大島の人間はみんな同じことを思っている」

 俳号も島特産のツバキにちなんで付けた。戻りたい気持ちはあったが、自宅跡地は人が住めない災害危険区域に指定され、市に買い上げられた。

 「俺の目が黒いうちは、もうどうにもできない」

 12年2月、九条に自宅を再建した。

 本土の生活が長くなるにつれ、意識も変わってきた。2月13日夜。福島県沖で起きたマグニチュード(M)7・3の地震は気仙沼で震度4を観測した。揺れに緊張感を覚えたが、津波のことはしばらく思い付かなかった。

 大島にいれば、すぐに「津波」と浮かんだのに。

 「震災は遠い記憶だ」。震災の句を作っても、捨てることが増えてきた。

 それでも、捨てられない思いもある。

手庇(ひさし)に        
雲居の室根山うらら

 大島の自宅からは室根山が見えていた。室根からどんな風が吹いて来るか、雲がかかっているかどうかで毎日天気を予想した。

 九条の自宅から室根山は見えない。それでも、句に詠む機会は増えた。

 「3・11のことは思い出したくなくても、大島での暮らしのことはふっと出てくる」

 今、大島の自宅跡地の庭には、長女朋子さん(68)が育てるハーブやバラがひっそりと花を咲かせる。かつて、ここにあった暮らしを受け継ぐように。

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