復興庁(1)消えた防災庁/「備え」の議論棚上げ

石巻市に移転した復興庁宮城復興局の看板を掛ける英(はなぶさ)直彦局長=1日

 東日本大震災からの再生の「司令塔」を担う復興庁が2012年2月に発足して10年目に入った。東京電力福島第1原発事故を巡る抜本的な解決の先行きが見えず、設置期限は31年3月まで10年延長された。省庁縦割りを打破し、復興を推進する当初の目的は達成できたのか。10年間で38兆円が投じられた復興予算と合わせ、被災地にもたらした光と影を検証する。

 国の第2期復興・創生期間が始まった1日、復興庁宮城復興局の看板が石巻市の石巻支所に掲げられた。期間の延長に伴い、仙台市から拠点を移した。岩手復興局も盛岡市から釜石市に移転した。

 次の復興ステージに入ると同時に福島を含む3復興局で70人が削減された。福島県選出の吉野正芳元復興相(72)は「復興庁が単独存続するとは思っていなかった」と語る。

 21年3月末の復興庁の設置期限を前に、与党が政府に後継組織を検討するよう提言したのは吉野氏の在任中(2017年4月~18年10月)のことだ。福島の復興は道半ばだが、岩手、宮城両県のハード復興はほぼ完了が見込まれていた。

 「全国で災害が起きている。震災から年月がたち、復興庁を存続させるには防災対応を含めないと国民の理解を得られない」。吉野氏らの念頭にあったのが、組織改編の議論で立ち消えとなった「防災庁」だった。

 「国家的危機に対処する参謀本部が必要」(五百旗頭真復興構想会議議長)「災害の備えから復興までを担う防災省を創設してほしい」(全国知事会)

 復興の専門家や自治体からは、災害対応を一元的に担う組織創設を求める声が相次いだ。与党も18年7月に「震災のノウハウを継承し、防災対策に責任を持てる危機管理体制を検討すべきだ」と提言し、復興・防災庁案が浮上した。

 災害対応が内閣官房や内閣府など複数部門にまたがる現状を改め、新組織を常設化する-。地震発生から復興庁設置まで約1年を要した震災の教訓にほかならない。

 安倍晋三前首相(66)が率いた官邸は大幅な組織改編につながる復興・防災庁構想には消極的だった。熊本地震(16年)や西日本豪雨(18年)で、官邸中心の危機管理が機能したと考えていたからだ。

 被災自治体には異なる懸念があった。福島県の内堀雅雄知事(57)は「復興のトップは引き続き閣僚が望ましい」と防災庁構想をけん制。防災部門との統合により、復興がおろそかになることを恐れていた。

 19年2月27日。安倍首相は「省庁の縦割りを廃し、政治のリーダーシップで復興を成し遂げる組織を」と復興相に指示した。官邸と被災地の胸の内が重なり、事実上、復興庁の「延命」が決まった瞬間だった。

 復興庁の有識者部会は同7月から約3カ月間で復興施策を総括した。部会委員だった東北大大学院の姥浦道生教授(47)は「事業の進み具合を確認するのが役割で、深掘りは求められなかった」と振り返る。組織存続の方向が既に固まり、実質的な検証はなかった。

 被災地を支える枠組みが維持された一方、防災組織の根本的な議論は棚上げされ、南海トラフ巨大地震や首都直下地震に向けた組織的な備えは宙に浮く。

 復興庁は1日、内閣府防災部局と連携する「復興知見班」を組織した。平沢勝栄復興相(75)は「復興の知見を防災面でも活用し、有機的に連携する」と説明。復興庁や内閣府防災担当が2年程度で代わり、「防災や復興のプロが少ない」という批判への「回答」と周囲は受け止める。

 自民幹部が危機感をにじませる。「省庁の組織を見直すには相当の腕力が必要。残念ながら、そこまで至らなかったということだ」

河北新報のメルマガ登録はこちら
震災10年 復興再考

 東日本大震災は命、暮らし、教育、社会の在りようを根底から問い直した。私たちが目指した「復興」とは何だったのか。政府の復興期間の節目となる震災10年に向け、その意味を考えたい。

震災10年 復興再考

震災10年 あの日から

復興の歩み

企画特集

先頭に戻る