「あの日から」第11部 公務員(1) 釜石・中平貴之さん(上) コンテナ躍進、港に活気

ガントリークレーンの前で釜石港の可能性を語る中平さん=3月30日、岩手県釜石市

 東日本大震災の被災地では自治体職員も復旧復興に奮闘した。打撃を受けた経済の再生、災害対応経験の伝承、市町村の枠を超えた連携。地域の未来を背負い、ひたむきに、時として型破りにも見える挑戦を続けてきた。

 快進撃を象徴する巨大クレーンの下で中平(なかだいら)貴之さん(47)が不敵に笑う。岩手県釜石市国際港湾産業課の課長補佐を務めている。

 「海に面した都道府県は39あるが、岩手はコンテナ物流拡大の余地があるフロンティア。徹底的に開拓する。釜石港のポテンシャルって? まだまだ、こんなもんじゃありませんよ」

 釜石市の出身。高校卒業後に市役所に入った。2002年度に釜石港の担当となり、30年の公務員生活の半分以上を港の振興にささげてきた。「コンテナ王子」。活躍ぶりから、野田武則市長からこんなあだ名で呼ばれている。

 市内の釜石港に初の国際コンテナ定期航路が開設されたのは震災後の11年7月だった。10年に114個(20フィートコンテナ換算)だったコンテナ取扱量は右肩上がりで増加した。19年は80倍以上の9292個に達した。

 17年9月にはコンテナの積み降ろし能力が高い橋脚型のガントリークレーンが稼働し、作業効率も一気に向上した。復興支援で大阪府から県が無償で譲り受けた物だ。県内には今でも釜石港公共埠頭(ふとう)以外にはない。

 「シルクロードの時代から物流の要衝にある都市が発展した。利便性の高さで企業を呼び込み、雇用をつくる」。海運の主役となるコンテナ船の定期航路があれば港に製造業が立地し、地域経済の浮揚につながる。航路開設に情熱を持って取り組んだ。

 仕入れた知識と張り巡らせた情報網を駆使し、製品や原料を輸出入している企業に出向く。物流業者を巻き込み、輸送ルートに釜石港を組み込んでもらうよう働き掛けてきた。

 1989年の新日鉄釜石製鉄所(当時)の高炉休止後、衰退する「鉄のまち」にとって港湾振興は重要なテーマだった。

 企業や港などとの複雑な調整を要する国際物流は、業界のキーマンとのつながりがものをいう。全国の関係者を訪ね歩いて港を売り込み、大物と評される人物にも人脈を広げた。手元にある約3000枚の名刺が「セールスマン」としての努力の証しだ。「俺みたいな小物が飛び込んで来て一生懸命にプレゼンテーションする。面白がってくれたのかもしれないね」

 釜石港はコンテナクレーンの整備と航路誘致、荷物集めが長年の課題だった。2009年に中古の旋回型クレーン導入にこぎ着けたものの、長引く不況とリーマン・ショックの影響は大きかった。集荷は難航し、コンテナ船は不定期でしか来てくれない。もがき続ける中、あの日を迎えた。

 津波が、船に積み込む新車を保管するモータープールものみ込んだ。1カ月前に拡張工事が完了したばかり。完成自動車の取扱量拡大への期待も数百台の車とともに押し流された。

 絶望感を抱きつつ市民約500人と一緒に高台の寺に避難した。夜明けとともに釜石港を見た。クレーンが朝日を浴び、光り輝いている。「いける」。直感した。

 奇跡的に津波はクレーンのエンジン下15センチで止まっていた。コンテナ運搬車両も流失を免れた。震災の混乱下、修理を急いだ。

 2カ月半後、中平さんは釜石港にいた。一世一代の大勝負が迫っていた。
(東野滋)

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