東日本大震災から2カ月後の2011年5月、仙台から約600キロ離れた大阪府豊中市。東洋刃物大阪工場の会議室で、当時社長だった庄子公侑さん(77)は伝えた。
「大阪工場は閉鎖し、機能を宮城に集約します。皆さんには宮城へ転勤していただきたい」
集まった約40人の従業員は騒然となった。
産業用刃物メーカーの東洋刃物(宮城県富谷市)は仙台、多賀城両市にまたがる本社と工場が津波で被災。多賀城での生産縮小、富谷市の富谷工場への本社移転とともに決めたのが、1937年から鉄鋼用刃物を製造する大阪工場の閉鎖と土地売却だった。
会社は11年3月期決算で4億超の債務超過に陥っていた。一方、大阪の閉鎖で見込んだ売却益は10億円超。取締役管理部長として資金繰りを担った清野芳彰社長(70)は「借り入れや補助金だけでは再建は難しい。生産集約は苦渋の決断だった」と語る。
大阪工場の労働組合は閉鎖に反対した。大阪で家庭を築いた従業員が多かったことが一番の要因だが、別の理由もあった。
「震災後の大阪工場は『大変な東北の分もわれわれが一丸となって頑張ろう』という雰囲気で、代替生産もした。だから余計にショックが大きかった」。大阪営業所に勤務していた総務課の西城達也さん(38)が代弁する。
5月、急きょ大阪工場へ異動した加藤幸毅製造第3課長(49)は「何しに来たんだという目で見られたのを覚えている」という。
小林祐一人事課長(68)が大阪工場の従業員との対話を担った。
「この会社が好きです。辞めたくありません」
「大阪工場をつぶさないでください」
小林課長が聞いたのは閉鎖への不満ばかりではない。1人当たり20~30分、年末にかけて3回。従業員の会社への愛着に触れ、胸の痛む日々が続いた。
大阪の高校から現地採用したばかりの新入社員が1人おり、高校に謝罪に行った。従業員に宮城県内での住宅を案内したり、関西の外注先に再就職の受け入れをお願いに回ったりした。
粘り強く説明を重ねた。大阪の従業員は経営状況を理解して矛を収めていった。加藤課長が大阪工場で担った設備の仕分け作業にも応じ、徐々に協力を得られるようになった。
最終的に宮城の工場に異動したのは4人。「最後まで悩んでくれた人もいた。子育てや両親の介護を考えると行けないという人が多かった」(小林課長)
12年2月、熱処理を担う多賀城工場の1棟が稼働を再開した。1カ月後の3月、大阪工場は75年の歴史に幕を下ろした。
「これだけの犠牲を払い、会社を存続させないわけにはいかない」。清野社長は決意を新たにしていた。
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