「震災10年 あしたを語る」元JR東日本社長 清野智さん 地域の足守る 使命を再認識

清野智さん

 東日本大震災から10年。復興をリードした組織トップ、夢と元気を届けるアイドルやサッカー選手、東京電力福島第1原発後の風評被害と闘う農家、建造物中心の復興に異議を唱える民俗学者は、それぞれの立場で何ができるか考えた。使命を自覚した7人の群像劇。

 <東日本大震災の発生時、東京の本社ビル27階にいた>
 揺れたと思ったら周りの引き出しが開き始め「でかいぞ」とすぐにテレビを付けた。東北が震源の大地震と分かり、最初に頭に浮かんだのは「新幹線は大丈夫か」。乗客が多く、脱線したら大変なことになる。
 営業中の新幹線は1本も脱線しなかったが、東京は電車が止まり、東北には安否の分からない電車があった。情報を集めるのも精いっぱいで、その日は徹夜だった。
 <津波により7線区の23駅が流失するなど、鉄道施設は大きな被害を受けた>
 駅や列車内で亡くなった人はいなかった。ただ、仙石線野蒜駅(東松島市)から仙台方面に向かった列車の乗客は、指定避難所の野蒜小体育館に避難し、津波に襲われた。乗客全員の安否は把握できないままだ。
 新幹線は後のシミュレーションによると、発生時に最もスピードが出ていたケースは時速260~270キロ。約100秒後、一番激しい揺れが来た時は100キロまで落ちていたと推計される。牡鹿半島に設置していた海岸地震計が初期微動をキャッチして列車への送電を止め、非常ブレーキを作動させた。
 海岸地震計はJR東の研究者らが、大地震の際にできるだけ早く列車を減速させようと設置していた。よりスピードが出ていたらどうなったかは「神のみぞ知る」だが、やれる限りの安全対策をやっていたことが生きた。
 <2011年4月の定例記者会見で、被災した7線区の復旧を明言。大船渡線と気仙沼線の一部はバス高速輸送システム(BRT)で復旧した>
 会見で「街の復旧、復興に合わせながら足を確保する」と言った。最も早く足を確保するため、バスでの復旧も当初から念頭にあり、「全て鉄路で」という思いではなかった。
 鉄道人として、地元の鉄道への思い入れはありがたい。地域の念願かなって走り始めた経緯もあった。ただ、震災前は1、2時間に1本の運行で利用者は主に高校生と通院の高齢者。バスなら学校や病院近くに停車駅が造れる。運行本数は約3倍に増えた。車で動けない人の足を守る意味で、利便性が高いのは今のBRTだと思う。
 <20年3月に常磐線が全線開通し、震災による不通区間は全て解消された>
 BRTはまだ完全な姿になってはいないが、点と点をつなぎ、線になった。私たちの役割は足を守る、確保すること。「復旧させるんだ」「レールをつなぐんだ」という気持ちで現場は必死に頑張った。
 震災前、鉄道は「あるのが当たり前」と私たちも乗客も思っていた。東北新幹線が徐々に運転区間を延ばしていくと「ありがとう」と声を掛けられたりして、役割を改めて認識した。(聞き手は丸山磨美)

[せいの・さとし]東北大卒。1970年旧国鉄入り。2006年JR東日本社長に就任し、12年から会長、18年から顧問。15年6月から18年3月まで東北観光推進機構会長を務め、18年4月から日本政府観光局理事長。仙台市出身。

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