「震災10年 あしたを語る」前気仙沼漁協組合長 佐藤亮輔さん 魚市場再開へ 団結力を発揮

佐藤亮輔さん

 <気仙沼市魚市場は東日本大震災の津波で被災し、地域の基幹産業である水産業の基盤が失われた>
 地震が起き、気仙沼湾に近い自分の会社から高台の自宅に避難した。夜になると湾が炎に包まれ赤く染まった。「魚市場は大丈夫か」とずっと気掛かりだった。
 数日後にようやく近づけた。地盤が沈下し満潮時は施設が水に漬かり、荷さばき場もヘドロだらけ。気が遠くなったが「建物は流されていない、何とかなる」と希望を持った。
 <震災の9日後、漁業関係者約200人を魚市場に招集する>
 何をやっていいか分からなかったが、組合長としてアクションを起こす必要性を感じた。電話も通じないのに情報が伝わり、仲買人や加工業者らが魚市場3階の会議室にやって来た。
 電気もなく薄暗い部屋で、みんな不安そうにうつむいていた。私が集めたのだから何か言わねばと思い、とっさに「6月になったら魚市場を開けるぞ」と宣言した。みんなの表情がぱっと明るくなった。
 大変なことを言ったと後から思ったが、カツオ船を受け入れなければと必死だったのだろう。みんな一瞬だけ喜び「でも、どうすんだ」と冷静な目になった。
 <6月の魚市場再開に向け動きだした>
 漁協職員が手作業で泥をかいた。宮城県や市は、営業再開に向け、海底のがれき除去や荷さばき場のかさ上げに取り掛かった。
 電気も早く必要だった。電力会社からは「特定の場所を特別扱いできない」と言われたが、「気仙沼のために必要なんだ」と何度も交渉し応じてもらった。
 漁業関係者には「それぞれの仕事を最小限でも復活させよう」と呼び掛けた。「それならできる」という雰囲気が広がった。
 <5月、宮崎や高知のカツオ船の船主が集まる東京の会議に出向いた>
 漁協職員や漁業者ら10人ほどで赴くと、案の定「気仙沼は駄目らしい」という話をしていた。「魚市場を開けるから大丈夫だ」と訴えると、半信半疑だが徐々にこちらを向いてくれた。
 「何トン揚げられる?」と聞かれ困った。やってみないと分からなかった。やがて船主たちが「魚市場の状況に応じてカツオを取る」と言ってくれた。気仙沼の背中を押してくれていると、涙が出そうになった。
 <宣言通り6月、魚市場を再開しカツオも水揚げされた。昨年で24年連続となった生鮮カツオ水揚げ連続日本一も途切れなかった>
 入り口にたどり着いただけで、感慨にも浸れなかった。ただ「気仙沼には魚市場が必要なんだ」と、みんなが団結した力はすさまじかった。普段は見えない気仙沼の底力を感じた。
 三陸沿岸道の整備や水産資源の減少で、気仙沼を巡る環境は新時代を迎えた。それでも、気仙沼は海と生きる。水産業は中心であり続けるだろう。(聞き手は鈴木悠太)

[さとう・りょうすけ]1941年、気仙沼市生まれ。慶大卒。66年4月に旧佐藤商店(現カネダイ)入社、85年から社長。2002年6月に気仙沼漁協組合長に就き、17年6月まで務めた。

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