<今こそ ノムさんの教え(1)>「無視、称賛、非難」

 2013年以来の優勝を目指し、首位を争うプロ野球東北楽天。けん引役の石井一久監督、田中将大投手らは昨年亡くなった名監督野村克也さんに指導を受けた弟子たちだ。ヤクルト、東北楽天など4球団を率いた名将の教えの根幹は「人とはどうあるべきか」という人生哲学。従来の価値観が揺らぐこのご時世、かつて聞いたノムさん語録やボヤキに再び耳を傾け、人生訓に触れてみよう。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

東北楽天の2番手で5回3失点の一場(左)と先発捕手の嶋をベンチで説教する野村さん=2007年7月27日、スカイマーク(当時)

 人は常に他人の視線にさらされ、評価の中で生きている。自分が置かれた場所で期待に応えることで、活躍の場は広がっていく。

 試合中の東北楽天ベンチ、勝負所で痛打を浴びた後、野村監督が捕手の嶋基宏(現ヤクルト)らを叱る場面をご記憶の方も多いだろう。「無視、称賛、非難」。野村さんは基本的にこの3つで選手に接した。成長するために何をするべきか、と選手が我が身を見つめ直すための気付きを与えようとした。
 「無視~」は落語の「前座」「二つ目」「真打ち」のような階級分けでもあった。一番下が「無視」。「まず名前を覚えてもらえるようになれ。特長を磨け」と求め、1軍当落線上の選手は視界に入れなかった。
 2009年春、試合前のベンチで女性アナウンサーが野村監督に自己紹介した。「選手と同じ名字です」。当時、高卒4年目で売り出し中の枡田慎太郎の名前を出してきた。だが野村さんは「うちのマスダ? いたっけ?」と単純に名前を覚えていなかった。
 勝負強い打撃で13年の日本一達成に貢献する枡田が飛躍の時を迎えるのは、星野仙一監督になってからだった。
 1軍に定着し始めた選手は「称賛」で対した。持ち味を出し、チームの力となってもらうために極力ほめた。おだて下手の野村監督なりに冷やかしたあだ名でマスコミに売り出した。
 外野守備が特長の牧田明久は「専守防衛の自衛隊」。ヤクルト監督時代に内野の名手宮本慎也に使った呼称で、期待の大きさを表現した。09年に驚異の打率4割を誇った草野大輔は「安物の天才」。ストライクゾーンから大きく外れた悪球打ちを得意とした中村真人は「天才バカボン」「宇宙人」と呼んだ。
 さわやかな顔立ちの投手、青山浩二は「歌舞伎役者」。マウンドで3ボール2ストライクになることがよくあった永井怜は「フルハウス」。同じ数字の札3枚、2枚の組みをそろえるポーカーの手になぞらえた。
 当然のように結果が求められる中心選手は「非難」し、いっそうの責任感を求めた。敗戦につながったプレーがあるごとに、根拠を説明させ、徹底的に改善を求めた。嶋のように、野村監督が「グラウンド上の監督」と最重視した扇の要の捕手がこれに当たる。
 特に初代エース岩隈久志には厳しく、あえてストレスのかかる言葉を投げ掛けた。06、07年けが続き、途中降板を訴えることもあった岩隈を「ガラスのエース」とこき下ろした。言葉の裏には、最後まで勝敗を背負って戦い続ける姿勢を見せ、周囲の模範になってほしいと願う叱咤(しった)があった。
 クレバーな岩隈はしっかり意図をくみ取った。非難をばねに08年は1年間離脱せずに投げ続け、21勝して最多勝などタイトルをほぼ総なめにする大活躍を見せた。09年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)2連覇を日本代表の大黒柱として支えた。
 野村監督の信条は「財を遺(のこ)すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とす」。その通りに人材育成したが、東北楽天時代の最高傑作は「マー君」田中将大だろう。高卒1年目から指導し、球史に残る大投手に飛躍させた。祖父と孫ほどの53歳も離れた2人には他に類を見ない師弟関係があった。

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

河北新報のメルマガ登録はこちら

企画特集

先頭に戻る