<今こそ ノムさんの教え(4)>「世界に一人しかいません」

 野村さんは沙知代さんとの愛を貫き、栄光も挫折も経験してきた。「仕事」と「家族」の選択に差し迫られた時、あなたはどちらを選択しますか?

敬老の日の始球式イベントで、笑顔で並ぶ野村さんと沙知代さん=2009年9月21日、Kスタ宮城(当時)

 2009年、野村克也さんは妻沙知代さん作詞の演歌「女房よ…」をリリース。公然と夫婦の絆を歌い上げるほどに妻を溺愛した。

 過去には彼女が原因で野球人生のどん底を度々経験し、振り回されたはずだ。だから時には「悪妻」「ドーベルマン」「ゴーイング・マイウエー」と断じ、周囲に強がってみせた。それでも最後は決まって自慢した。「何だかんだ言って、サッチーの夫が務まるのは俺だけなんだよな」と。

 野村さんは「女運がない」と元々思っていた。

 1954年春、高校を出て南海(現ソフトバンク)に入団する道中。野村さんは京都で占い師に将来の運気を見てもらった。

 「仕事運がいい。プロで成功するでしょう」

 当たった。練習生からたたき上げ、名選手として、巨人の長嶋茂雄、王貞治とも肩を並べるスーパースターになった。

 占い師は「ただし…」と続けていた。

 「失敗するとしたら、女性でしょう」

 野村さんは最初の結婚がうまくいかなかった。「最初の妻は遠征中に家で浮気していた」。離婚を話し合っていた頃、沙知代さんに出会った。

 彼女は当時のボウリングブームに乗って、関連商品の輸入販売業をする活発なキャリアウーマンだった。その70年、野村さんは選手兼任監督となったばかりの絶頂期にあった。

 離婚が成立しないまま交際していた77年、スキャンダルに見舞われる。「監督の愛人が野球の現場に介入している」とチーム内外から追及を受けた。立場が危うくなった野村監督は有力支援者の僧侶に相談に行った。逆に詰め寄られた。

 「女と野球、どっちを選ぶんだ」

 きっぱり答えた。

 「仕事はいくらでもありますが、沙知代は世界に一人しかいません」

 「女」を取って南海を追われた。「生涯一捕手」を掲げ、外様の一兵卒として他球団の世話になった。スーパースターらしからぬ晩年になった。

 それでも再起した。引退後、野球解説者として名声を浴びた。90年代ヤクルト監督として3度の日本一に導き、名監督の仲間入り。再びの栄光の時を迎えた。

 低迷する名門阪神の再建を託されて3年。2001年12月、沙知代さんが脱税容疑で逮捕された。夫は道義的に続投するわけに行かず、辞任した。

 「妻のせいで監督の座を2度も追われたのは俺くらい」。後年の野村さんはむしろ胸を張った。だがなぜ妻の所業を許せたのか?
 相性抜群、唯一無二のパートナーだったからだ。「投手はプラス思考、捕手はマイナス思考だからバッテリーって言うんだ。俺は家でも捕手。剛腕サッチー相手にね」。南海を追われた絶望的な状況も、沙知代さんは「なんとかなるわよ」と励ましてくれた。「婦」唱「夫」随の関係が性に合っていた。

 夫がどん底の時、沙知代さんは人知れず内助の功を見せた。阪神を去った後、野村さんはしばらく自宅に引きこもった。既に60歳代後半。プロ球界復帰の望みは薄かった。「人間が絶対に勝てないもの。時代と年齢」とぼやいた。その頃、野村宅を球界関係者が訪れると、沙知代さんは帰り際を呼び止めて訴えた。

 「主人には野球しかないの。もう一度野球をやってほしいの。だからまたあの人を元気づけてあげて」

 時に夫人の目には野村さんさえ見たことがないという潤んだものがあった。

 命の限り野球を究めようとする夫。そのマネジャー役に徹した夫人。二人の願いは実を結び、06年から野村さんは東北楽天の指揮を執る。71歳を迎える球界最高齢監督として。

 東北楽天監督時代のベンチ。報道陣に囲まれた際も、野村さんは沙知代さんとの愛の歩みを披歴した。彼女が1996年衆院選に立候補した際に公表した学歴が、詐称だと疑われた話。

 「経歴はうそ。俺も出会った頃にその経歴を聞いてから、真実を長い間知らされなかった。怒ったよ」。続いて「でも…」と打ち明ける、のろけ話のようなせりふに二人だけの世界が垣間見えた。

 「サッチーはそこまでして俺をゲットしたかったんだろう。うそも愛なんだ。サッチーと一緒にならなければ、今の俺だっていない」

 夫妻にとって人生の苦楽は振り返れば愛を深める出来事に過ぎなかったのかもしれない。「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気が付けばそこにある物」。くだんの衆院選があった25年前、最も売れたヒット曲の歌詞が、二人の関わりをくしくも言い当てているように思える。

 20年2月、新型コロナウイルス禍が本格化する前に野村さんは他界した。自宅で過ごす時間が増えた今、こう問い掛けられている気がしてならない。「仕事より大切なものは何か」と。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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