<今こそ ノムさんの教え(5)>「上り坂、下り坂、まさか」

 浮き沈みのある人生でも、幸運や良縁に恵まれたり、喜ばしい出来事に立ち会ったりする「まさか」の瞬間がある。それはたゆまぬ努力がもたらす。頑張る姿を見てくれている誰かが必ずどこかにいて、いつか手を差し伸べてくれる。

2009年のクライマックスシリーズの日本ハム戦の試合終了後、両チームの選手に胴上げされる東北楽天・野村監督(当時)=10月24日、札幌ドーム

 人間は何をもって満ち足りるのか―。深遠な問いの答えを野村さんが身をもって教えてくれた。

 「ふふふ、この輝き、いいだろう?」。野村さんは東北楽天担当の記者たちに、高級腕時計を「お宝拝見」させた。これでもか、と装飾された宝石に目がくらむ。ジェイコブ、フランクミュラー…、セレブ御用達のブランド品ばかり。どれも軽く数百万円はする。「自宅に山ほどある」とさらりと言う。

 桁違いの大人買い。気分転換のつもりなのに、つい財布のひもが緩むのが悪い癖。だから「お宝拝見」は自戒のぼやきとともにいつも後味悪く終わった。「俺は弱いな。すぐ欲しくなって買っちゃう。幼少期に貧乏で育った反動なんだろう、この成り金趣味は」

 太平洋戦争で父親を失った。病気がちな母親が身を粉にして働き、育ててくれた。戦後間もなく中学生だった頃、野球部員で唯一ユニホームを持っていなかった。ランニングシャツと短パン姿。劣等感を抱きながら集合写真に収まった。

 プロに憧れたのは「母親に楽をさせたかったから」。南海(現ソフトバンク)では現在の育成選手や裏方に近い立場のテスト生から始まった。超一流に成り上がると金に困らなくなった。

 「日本人初の年俸1億円選手はたぶん俺。1970年代に南海で兼任監督だった時にもらっていた」と後に明かした。87年の落合博満(当時中日、秋田県男鹿市出身)が初の年俸1億円日本人選手として話題になるよりも前。パリーグが日陰の存在だった頃の昔話だ。

 振り返れば栄光から転がり落ちもした野球人生。そのせいか「いつ、どんな想像し得ないことが起こるか分からない」と披露した語録があった。

 「人生には三つの『さか』がある。上り坂、下り坂。そして、まさか、だ」

 「まさか」の一つが、高卒でのプロ入りを目指した時。54年南海入団テスト、野村さんは遠投の試験で苦しんだ。合格基準の距離にどうにも達しない。苦闘する18歳を見かねたのか、試験官がこっそりささやく。「少し前に出ていいぞ」。野村さんは遠慮なく踏み切り線をはみ出す。白球の放物線は見事、合格ラインを通過。九死に一生を得た。

 80年に45歳で引退。その後評論家として野球解説に革命を起こした。テレビ中継でストライクゾーンを画面に表示する「野村スコープ」を導入。バッテリーと打者の勝負のあやをひもといた。次の球種やコースをクールに推測し、ずばり当てる姿は予言者のよう。結果論や経験則だけで語る評論家と一線を画した。

 広島と近鉄が初の日本一を争った79年日本シリーズ第7戦。広島の抑え投手江夏豊は九回無死満塁から逆転を許さず、栄冠を手にした。その神懸かり的投球こそがプロ野球随一の名勝負「江夏の21球」。故・山際淳司さんの著作はスポーツノンフィクションに新たな地平を開いた。比較的知られていないが、テレビドキュメンタリー版も名作の誉れ高い。そこで江夏の投球の妙をつぶさに語ったのが、野村さんだった。

 評論家になって9年。次なる「まさか」が訪れる。89年、さしたるつながりがなかったヤクルトから監督就任要請が来た。

 「解説のお仕事に感心していました。本物の野球を教えてください」。相馬和夫球団社長は言った。「俺のことを見ていてくれた」。野村さんは野球理論を高く評価されたと感謝した。77年に南海の選手兼任監督の座を追われて以来、監督復帰が目標だった。

 「まさか」とは努力の積み重ねが引き寄せた幸運や良縁のようなもの。野村監督は見えない力を信じるからこそ、人生論を最優先で説いた。「人は他人の評価で生きている。そして努力する姿をきっと誰かは見ている。だからどんなときも気を抜かず頑張り続けなくてはいけない」

 当然「見る」側になっても目を光らせた。ヤクルト監督5年目の94年秋。明大の選手だった息子・克則(現東北楽天育成捕手コーチ)が出場する東京六大学リーグの試合を見に訪れた。そこで相手校・法大の左打者が活躍していた。間もなくドラフト会議がある。何かを感じた野村さんは球団に獲得を進言した。

 その選手は稲葉篤紀。大学通算6本塁打のうち、野村さんの目の前で2本を放っていた。野村さんの直感通り、稲葉は入団1年目の95年、主力として日本一達成に貢献。日本ハム移籍後には通算2000本安打も達成した。「俺が見ていたからプロに入れたんだぞ」。こう言われながら努力を重ねた野村門下生は引退後の今、東京五輪の野球日本代表監督を務める。

 2009年のクライマックスシリーズ第2ステージ。東北楽天は日本シリーズを懸けた戦いで日本ハムに屈した。通算24年間の監督生活の終幕、脱力感に見舞われていた野村さんに予想外の出来事が起こる。チーム全員で応援席のファンに感謝のあいさつを終えたところ、日本ハムの顔触れがにわかに集まってきた。

 「監督、さあ胴上げですよ」。勇退の花道を飾る粋な演出。中心で音頭を取ったのは稲葉だった。両軍の教え子たちが呼応し、感謝の気持ちを込めて背番号19を担ぎ上げる。「まさか、俺は敗軍の将なんだぞ…」。5度宙を舞いながら、野村監督は恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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