<今こそ ノムさんの教え(6)>「己を知れ」

 「己を知れ」。野村監督は成長の余地がある選手にこう言った。まず自分の長所、短所をしっかり認識できてこそ、進むべき道が見えてくるからだ。責任や使命があってしかるべき存在に対しては、自分の立ち位置を客観的に見つめられる視座を求め、人間的成長を期待した。

阪神の秋季キャンプで新庄剛志選手(左)に打撃の指導をする野村監督=1998年11月、高知・安芸市営球場

 投げては160キロ超の剛速球。打っても特大アーチ。大リーグエンゼルス大谷翔平(岩手・花巻東高出)による漫画のような投打二刀流が日常的な今なら、賛否は分かれなかったかもしれない。大谷が2歳だった25年前、東京ドームでの出来事。
 「…に代わりましてピッチャー イチロー」。1996年7月21日のオールスター第2戦九回2死走者なし。パリーグを率いる仰木彬監督は大きな演出を試みる。オリックスの監督と選手として師弟関係にある若きスターの二刀流披露だ。
 22歳イチローは外野手ながら投手顔負けの速球を投げる。愛知・愛工大明電高時代は甲子園のマウンドも踏んだ投手だ。
 「仰木マジック」と異名を取り、サービス精神もたっぷりな仰木監督らしい起用。何より監督自身が「走っても打っても守っても素晴らしい選手。一度、投手をさせてみたかった」。4点リードの勝利目前だからできたとっておきの出し物だった。
 イチローが外野からマウンドへ。練習で145キロを投げただけでも、球場は割れんばかりに沸いた。
 お祭り騒ぎの真っただ中、憤慨したのが対するセリーグ野村監督(当時ヤクルト)。「ファンあってのプロ野球だが、こういう趣向は違うだろう」
 次打者の準備をしていたのが、22歳松井秀喜(当時巨人)。球界の未来を担うもう一人のホープだ。
 「どうする?」
 野村監督は聞いた。温厚な人柄で知られる松井もさすがに困惑して苦笑い。
 「嫌です」
 再び場内放送が流れる。「バッター松井に代わりまして高津臣吾(現ヤクルト監督)」
 代打は打撃専門外のヤクルト投手。野村采配は「投手イチロー対松井」の一投一打を望む熱狂に思い切り水を差すものと受け止められた。
 両監督の思惑が真っ向対立する中でも、イチローはさすがの千両役者ぶり。直球攻めを続けること5球。139キロで高津をぼてぼての遊ゴロに打ち取った。「喜んでもらえてよかった」。降板後に言った通り、ショーとして成立させた。
 試合後、仰木監督は「相手が松井ならもっとよかった」と振り返った。一方の野村監督は憤然とした顔で言った。球宴は選ばれし超一流が技を競う大舞台、という信念からだった。「格式の高い舞台を冒涜(ぼうとく)したと解釈した。非常識をやってもらったら困る」
 この弁はやや正論過ぎる印象も与えた。しかし真意を込めた次の一言は異論の余地がない。当時思ったほど取り上げられず、10年以上が過ぎた東北楽天監督時代もベンチで思い出しては言っていた。
 「松井がもし打ち取られでもしたらどうするんだ」
 松井のキャリアに傷がつくようなことを一番に恐れた。野村監督は2年前の球宴で、高卒2年目初出場の松井を当時巨人でも座ったことのない4番に抜てきするなど、早くから期待をかけてきた。
 確かに「投手イチロー対松井」にファンは盛り上がるだろう。しかし、打たれたところで痛くもかゆくもないイチロー対して、松井には打って当たり前の重圧がある。その仰木采配が野村監督には独善的と思えた。「お遊びが過ぎると思わないのか…」とも言った。
 松井は続く後半戦、大ブレークする。「メークドラマ」を唱える長嶋茂雄監督の下、巨人の大逆転優勝の立役者としてセリーグMVPに輝いた。片やイチローもオリックスを2連覇に導き、パリーグMVP獲得。球宴でわざわざ投打対決せずとも、両雄には秋の日本シリーズという最高の決戦舞台が待っていた。
 「投手イチローに異議を唱えた野村監督がなぜ?」。98年オフに新たな波紋を呼ぶ。阪神監督に就任したばかりの野村さんが何と、チームの顔新庄剛志外野手に二刀流挑戦させると打ち出した。キャンプから熱心に投球を見守り、オープン戦で結果を出すと褒めちぎった。「さすが強肩。投手でもいい球だな」「公式戦でも短いイニングなら十分投げられる」
 単なる話題提供ではなく、明確な意図があった。「投手が打者を打ち取るのはいかに大変か。相手の立場で得た学びを打撃に生かしてほしい。本当は捕手挑戦がよかったが、お調子者の新庄の場合、投手の方が気分良く取り組めるだろう」
 結果、新庄の意識改革に見事成功。「試合で投げた後『ストライクを取るのは大変ですね』と言ってきた。『よし!』と思ったわ」
 打撃の粗さが目立ち伸び悩んでいた新庄は、投手心理を学び、打撃に開眼する。翌2000年には4番に定着し、2割7分8厘28本塁打85打点と堂々たる成績を残した。01年には大リーグへと飛躍していった。
 二刀流にまつわる二つのエピソードが示唆するのは、時に違う目線から自分を客観視すれば見落としていたことに気付く、という教え。だから野村監督はより高みを目指してほしい相手には願いを込めて言った。「己を知れ」と。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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