<まちかどエッセー・小川直人>私たちには暗闇が足りない

 おがわ・なおとさん せんだいメディアテーク学芸員。1975年仙台市生まれ。東北大大学院教育学研究科修了。メディアテーク開設準備段階から携わり、映像文化を中心にアーカイブや図書館に関する事業に取り組む。宮城大特任准教授。個人でも上映会や本の制作などに関わる。青葉区在住。

 2年に一度、例年ならば世界中からの作家や観客でにぎわう山形国際ドキュメンタリー映画祭が今年はオンライン開催となった(10月7~14日)。オンラインの映画祭というのは、インターネットを通じて一定期間だけ映画や監督との質疑などを配信するものである。観客は思い思いの場所でそれを見る。ただ一つ、映画祭の会場に集うことだけが許されない。映画祭というものが、映画を通じた人々の交流だとするならば、これは映画祭の根幹に関わる問題のように思われる。

 新型コロナウイルスの流行以来、世界各地の映画祭がオンラインを余儀なくされている。世界中どこの映画祭にも参加できるようになったと喜ぶべきなのか、モニター越しに一人で見て、チャットで質問することを「映画祭に参加する」と言って良いのか私は考えあぐねているが、取りあえず「映画を見る」ということに改めて思いをはせてみたい。

 映画を見るとは、映画館やホールの大きなスクリーンで他人と一緒に見ることである、とひとまず言ってみよう。もちろん今ではスマートフォンで見るのも映画を見ると言うだろうし、大正から昭和初期の時代には「パテベビー」という自宅用の映画玩具もあった。しかし、暗闇に身を潜めて同じものを見ているのに、ある場面では同時に笑い、またある場面では自分だけが泣いているというような体験は、映画を見ることの代え難い一部であると思われる。それは我を忘れるほど没頭しながら、はっと我を振り返る時間をも同時に過ごしていることになるからだ。映画を見ることは、個人的な営みというより、社会的な営みとも言えるだろう。

 別の言い方をすれば、現代に生きる私たちは、他者の気配を感じながら大きな暗闇に包まれることが、あまりにも少なくなってしまったのかもしれない。太古の記憶に刻まれている、深い自然の中でのざわめいた闇夜だ。震災で停電した夜に初めて星空に気がつくほどに街は明るく、昨今のキャンプ場は電気が敷かれているのが常である。だからこそ、映画館に足が向くとは言えまいか。映画を見るためというより、ざわめいた闇に包まれるために。私たちには暗闇が足りていないのだ。(せんだいメディアテーク学芸員)

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まちかどエッセー

 仙台・宮城在住の執筆者が、それぞれの活動や暮らしで感じたことをつづります。

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