<東北楽天・藤田選手~一期一会とともに>(上)壁を越える

加藤チーム統括本部長(右)から東北楽天の帽子を被せてもらう藤田=2012年6月26日、東京都内のホテル

 東北楽天の藤田一也内野手(39)が来季の戦力外となった。2012年にトレードで入団して以来、13年のリーグ優勝、日本一を中心選手として支え長年チームの屋台骨を担った功労者だ。野球人生の分岐点にある藤田への感謝とエールを込めて、座右の銘「一期一会」を胸に懸命に切り開いたこれまでを振り返る。(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

 藤田は常に目の前の「壁」を乗り越えるべく、努力を重ねてきた。そして東北楽天で球界随一の二塁の名手として大きく花開かせた。試合出場が減り続けた近年は、ベテランとして若手への指導役など縁の下の力持ちを買って出て、チームに力を尽くした。

 2018年オフ、強い向かい風にさらされた時期も「新しい自分を見つけるための壁ができた。新たな挑戦が楽しみ」と明かした。

 「ふがいない1年だった」。その11月下旬の契約更改交渉、36歳の藤田は年俸6600万円の提示を受け入れた。野球協約の上限を超える40%を超える大幅減。1歳下の今江が2日前に球団史上最大幅の1億5000万円減をのんだばかりだった。

 チームは17年にクライマックスシリーズファイナルステージまで進んだ。18年は、1月に亡くなった星野仙一元監督の弔い合戦のはずだったが、3季ぶりに最下位転落。途中辞任した梨田昌孝監督から平石洋介監督代行になり、巻き返しの勢いに乗った8月、藤田は試合中に脇腹を痛めて離脱。90試合出場に終わった。

 3度のゴールデングラブに輝き、守り抜いた定位置二塁。そこに強力なライバルも現れた。西武から移籍してきた浅村栄斗だ。18年に127打点で自身2度目の打点王に輝き、主将として西武をリーグ制覇にけん引した。外国人選手の並み居る不調で得点力不足に泣いた東北楽天には願ってもない主砲候補。「浅村は二塁」。オフに昇格した平石監督も明言していた。

 「最高の助っ人が来てくれた。浅村はこれから一番脂が乗ってくる」。追い込まれた立場でも、藤田はむしろ歓迎の構えを示した。「個人としてはライバルかもしれないが、優勝、日本一になるチャンスは確実に広がる」。選手会長まで経験した中心選手の度量さえ感じさせた。活躍の機会が減るのは承知の上だった。

 それ以前も「壁」を乗り越えてきた歩みがあった。

 アニメ「ミラクルジャイアンツ童夢くん」に感化され、遊撃の名手川相昌弘(元巨人など)に憧れ、小学1年で野球を始めた。以来、選手として一段階上のステージへと大きく飛躍した時は2度あった。

 最初は2000年、徳島・鳴門第一高(現鳴門渦潮高)から進学先を選ぶ時だった。

 関西大学球界の雄、近大に進むか否か。高校の森恭仁監督と意見が分かれた。2年秋の四国大会、遊撃手藤田の動きが別の強豪校の試合を見に来た近大監督の目にとまった。

 ちょうど近大から二岡智宏が巨人に入団して遊撃に定着した頃。「レベルの高い名門校でもまれ、二岡さんに続いてプロになりたい」。甲子園出場もかなわず高校生活を終える藤田は、虎の穴に入る決意を固めていた。対して、森監督は生存競争に勝ち残れず、早々に退部してしまうのではないかと不安に思った。藤田は言い切った。

 「マネジャーになっても、裏方になっても、絶対に部をやめないから近大に行かせてほしい」

 01年いざ入学。すると1年春からベンチ入り。2年春から公式戦出場。1998年夏の甲子園で松坂大輔擁する横浜高と伝説的死闘を演じたPL学園高の田中雅彦(元ロッテ)や大西宏明(元近鉄など)、中村真人(元東北楽天)ら先輩とともに実力を養った。

 「野球人生で一番伸びた時代」と振り返って思えるほど飛躍した。遊撃でベストナインに4度、首位打者にも2度輝いた。おのずとプロへの道は開けた。2004年のドラフトで横浜(現DeNA)から4巡目指名を受けた。

 2度目は1、2軍を行き来した若手時代。当時は「プロ入りが夢。目標達成した感覚で1軍にいるだけで満足だった」。

 1~4年目は二遊間には石井琢朗、仁志敏久といった熟練の名手の存在に阻まれ続けた。だが5年目の09年、主に二塁で自己最多の98試合出場を果たす。「これで来年レギュラーだ」。意気込んで迎えた翌10年、新助っ人カスティーヨが加入し再び守備要員に回る。

 試練にもかかわらず、藤田は現状維持の願望に支配されていた。「守備固めなら自信がある。でも打席には立ちたくない。凡退や失敗をしたら2軍に落とされる。無難にベンチにいたい。出なければ失敗しない」

 ある時、2歳上の兄貴分、村田修一が食事の席で藤田を諭す。「試合に出てなんぼだ。同じように1軍にいてもレギュラーと控えでは稼ぎが違うんだ」。当時の推定年俸は藤田が2850万円、既に本塁打王2度の村田は2億6000万円。10倍近い差があった。

 藤田は目を覚ます。「毎日何となく一緒に食事していてもゼロが一つ違う。これではあかん。打撃でもっと頑張らないと。当たり前だが、試合に出てなんぼ」

 10、11年と100試合200打数前後ながら2年連続で打率3割をマークした。着実に課題の打撃を克服し殻を破りつつあった。

 同時期、東北楽天から加入した渡辺直人(現東北楽天1軍打撃コーチ)が二塁に定着。逆風が続く中でも、藤田はブレークの時を虎視眈々(たんたん)と待っていた。

 「レギュラーになって超一流の選手になるんだ。弱いベイスターズを自分たちが野球人生を懸けて強くするんだ」

 そんな12年シーズン途中、30歳目前の藤田に東北楽天へのトレード移籍話が舞い込む。渡辺が東北楽天を去った時と同じように、DeNAファンに別れを惜しまれた。藤田は後ろ髪を引かれる思いを感じつつも、覚悟を決めた。「試合にさえ出られれば結果は出せる。絶対に壁を越える」

[ふじた・かずや]徳島県鳴門市出身。鳴門第一高から近大を経て、2005年ドラフト4巡目で横浜(現DeNA)入団。12年6月に内村賢介とのトレードで東北楽天へ。13年に正二塁手となり、初のリーグ優勝と日本一に貢献した。二塁手では13、14年にベストナイン、13、14、16年にゴールデングラブ賞に選ばれ、球界を代表する二塁守備名人として知られた。19年には通算成績1000本安打を達成。今季は1軍出場がなかった。は1407試合、1019安打、24本塁打、322打点、37盗塁打率、2割6分8厘。

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