<今こそノムさんの教え(17)>「固定観念は悪、先入観は罪」

 17年前、東北楽天がプロ野球へ新規参入表明したのは今時期だった。初代背番号11をご記憶だろうか。一場靖弘投手。ドラフトの目玉だった2004年、巨人など複数球団からの金銭授受事件で球界を激震させた、あの人だ。それでも戦力に乏しい新興球団には数少ない希望の星だった。一場が野村監督と歩んだ時代を振り返る今回の語録は「固定観念は悪、先入観は罪」。監督は少し悪役、あしからず。

ベンチでさえない表情の野村監督=2008年8月5日、Kスタ宮城(当時)

 勝利が唯一計算できる先発投手岩隈久志が長期離脱した06年。暫定のエース格は2年目一場だった。就任間もない野村監督は開幕直前大きく期待した。「150キロ超の球があるし、打者に向かっていく姿勢がいい。1年かけてエースに育てる」。開幕投手を任せた。

 抜群の身体能力を生かした剛球が持ち味。その半面、どうにも制球難が目立った。ただ野村監督はその手の指導に実績があった。ヤクルトでは石井一久(現東北楽天ゼネラルマネジャー兼監督)。阪神では井川慶に接した時こう告げた。「打者の顔と名前を忘れろ。お前、ダーツが得意だろう。的と思って捕手だけ見て投げろ」。すると先発定着3年目、20勝投手になった。

 東北楽天は創設1年目の05年38勝97敗1分け。翌年、野村政権1年目の勝ち頭が一場。1年先発フル稼働して30試合7勝14敗、防御率4・37とエースへの階段を上っていた。井川は先発1年目の01年29試合9勝13敗、防御率2・67。比較しても悪くない数字だった。

 それでもやはり「独り相撲」が目立った。快投していても突如崩れ、頼りなく思われた。馬車馬のように稼働しても信頼感は伴わなかった。重用した野村監督の言葉は有り余る期待の裏返しとはいっても、叱責(しっせき)は激しさを増し続けた。

 「精神力が弱すぎる」

 「コントロールと頭脳は比例する」

 「心臓の移植手術が必要だ」

 「(トレード)市場(いちば)に出してしまえ」

 どれも当時の新聞に載った談話。書いた身として今でも心が痛む。

 しかし、かような扱いでも当然という空気が不思議とあった。ファンの間では「一場がまた自滅した」は日常会話。仲間の選手も「1人走者が出ただけで絶体絶命のように弱腰になる」と言った。圧倒的な最下位から脱しようと苦しんだ低迷期。もどかしさやいらだちが一場に集中していた。成長過程のチームとはいえ、あまり聞きたくない現象だった。

 一場の成績は06年がピークだった。調整遅れで開幕1軍を逃した07年、一気に立場を失う。「飛躍の年のはずが『らくてん』の年だよ。落ちる、転ぶって意味」。野村監督の談話も冗談ではなくなってきた。

東北楽天先発の一場=2007年8月28日、フルスタ宮城(当時)

 4月、復権を懸けた登板で大炎上した。先発投手に代わり、0―3の二回途中から緊急登板した日本ハム戦。打たれても負け投手にならない気楽さは一切なかった。18安打、14失点の屈辱的結果。「…」。一場はこの世の終わりかのような意気消沈した表情で、試合後の報道陣を振り切った。

 野村監督は打たれても交代しなかった。実に先発並みの5回118球。懲罰的登板に見られたが、内心「獅子の子落とし」のように一場の再起を願っていた。

 「『恥を知れ』なんだよ。敵地で一方的に打たれて恥ずかしいと思えば、違う投球を見せるはず」。弱気を振り切ってほしいという願いを込めた劇薬。だが副作用が強く出た。一場は右肘を痛めて2軍落ち。

 同年、18歳の黄金ルーキー田中将大がいきなり11勝で新人王に輝く。一場に代わる希望の星となった。朝井秀樹、青山浩二、永井怜らも台頭。「年下に負けていられない」と一場も後半戦6勝と数字を残したが、すっかり陰に隠れた。

 そのオフ、一場はトラブルに見舞われる。視力回復手術後、右目が失明寸前に陥った。ほかの選手らも同様の手術を受けた中、ただ一人の不調。「なぜ?」とさらに周囲の信頼感を損ねた。結局08年は出足からつまずき未勝利に終わった。

 09年、名伯楽の佐藤義則新投手コーチの指導に再生が期待された。その兆しなく迎えた開幕前、トレード話が舞い込む。一場の大学の先輩、高田繁監督率いるヤクルトからだ。「もう場所を変えてやるしかない」。野村監督も、球団も低迷期に身を粉にした右腕を断腸の思いで送り出した。

 開幕後、一場は5回無失点5与四死球で移籍後初勝利した。監督はぼやき節でエールを送った。「四死球が多い投球は今までと一緒。でも勝った。要するに俺の我慢が足りなかった」。しかしこれが現役最後の白星となり12年に引退した。

 一場は東北楽天時代に右肩を痛めていた。1年間で200イニング近くを投げた06年閉幕後、飛躍を期してハワイのウインターリーグに参加。そこで症状が出て途中帰国した。一度は回復したかに見られたが、後年悪化していたという。野村監督は過去にも気に入った投手を使い過ぎて壊すきらいがあったが、一場も過労があったのか。「楽天時代はとても言えずにいたが、痛かった」。引退数年後、一場は筆者に明かした。

 振り返れば、一場はずっと「事件の当事者」だった。金銭授受と無縁の東北楽天に救われてプロ入りはできたが「事件はトラウマだ」と認めていた。突然の独り相撲も、監督の過激な叱責に妙に打たれ強かったのも、バッシングを経験してきたからだったか。

 そこで今回の語録が頭に浮かんだ。「固定観念は悪、先入観は罪」。決めつけはいけない。そのほかの見方や可能性を失う、という意味。思えば、あの頃の一場に「事件」の残り香を全く感じない人はいたのか。

 スターとして輝きを増す田中と明暗を分けるように、一場は表舞台から消えた。それが運命だったかもしれない。ただ「事件」は当時氷山の一角とも言われた。球界のうみを出そうとした再編騒動の渦にのまれ、野球人生が激変した不運は否めない。レッテルを背負い続けた彼の不幸を思う。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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