<今こそノムさんの教え(18)>「われ以外皆わが師」

 菅義偉首相が9月いっぱいで退任する。新型コロナウイルス対策で国民への言葉に訴求力を欠いた、と批判された。対して東北楽天時代の野村監督。テレビ各局のニュースに毎日登場し、独特のぼやきが人気だった。報道陣との雑談でも講演で引っ張りだこだった時代の持ちネタを存分に語った。語録「われ以外皆わが師」は「言葉の力」を身に付けるまでストーリー。まずは一席、お付き合いを。

CD購入者にサイン色紙を手渡す野村監督と妻の沙知代さん=2009年1月

 「仕事はいくらでもあるが、沙知代は世界に一人しかいません」。野村さんは南海(現ソフトバンク)の選手兼監督だった1977年、後に妻になる沙知代さんとの交際を関係者に問われ、「野球を捨てる」とたんかを切った(第4回『世界に一人しかいません』参照)。巨人の長嶋茂雄、王貞治にも匹敵するスターらしからぬスキャンダルで、栄光から転落した。

 当時、心の師匠のような人がいた。評論家の草柳大蔵さん。意外な交友関係だ。幸いロッテに拾われ、草柳さんに現役続行を報告する野村さん。その会話から一兵卒として生き抜く指針を得る。代名詞「生涯一捕手」が誕生する。

 野村「『野村は42歳でまだやる気か』と言われるんですよ」

 草柳「40歳ちょっとですか。海外には70歳を過ぎてロシア語を一から学び始めた政治家もいます。何かを求めている限り、一生涯が勉強です。『生涯一書生』という言葉もあります」

 野村「自分も野球の道半ばにいる人間ですね。ならばキャッチャーの僕は『生涯一捕手』でいきます」

 野村さんは80年、45歳まで現役を続けた。第二の人生の在り方を模索した時、草柳さんは諭してくれた。

 「まず本を読みなさい」

 幼少期は働いて家計を支え、プロ入りした18歳以降は野球に専念した野村さん。読書習慣などなかった。草柳さんに渡された啓発書「活眼 活学」(安岡正篤著)に背中を押される体験をした。そして決意する。

 「今から誰よりも野球を学び、野球博士になるぞ。もう一度指導者としてユニホームを着る日のために」

 野球解説以外に講演依頼が増えた。「話が続かず時間が余ります」。この悩みにも草柳さんは助言する。

 「野球のことだけ話すことです。あとは相手が解釈してくれる。経験談を聞きに来ているんですから」

 得意な話でいいと思うと聴衆一人一人の顔を見る余裕も持てた。既に読書が習慣になった野村さん。ビジネス書、名言集、哲学書から感銘を受けた格言をメモした。自身の体験談に肉付けし、聴衆に語った。インプットとアウトプットを繰り返して磨いた言葉は、野球人としての血肉になっていった。

 人気が出ると、マネジャー役の沙知代さんに1日に複数の講演予定を入れられることも。野村さんは「忙しくて死にそう」とうれしい悲鳴を上げた。明治時代の実業家渋沢栄一の言葉で沙知代さんに尻をたたかれては、頑張った。「四十、五十ははな垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」

 こんな9年間を経て、90年にヤクルトの監督就任。知将として黄金時代に導くのであった。

 ここまでが野村監督が東北楽天ベンチでいつものように報道陣に披露した講話。終盤恐妻ネタが混じるのが野村監督らしいところ。ものの10分ほど話すと、教訓のように言った。

 「本に学び、本を楽しむ。本から気付きを得れば得るほど人生が豊かになる」。駄目押しのように「われ以外皆わが師、だ」とも。作家吉川英治の言葉で、心掛け次第でどんな相手からも学びを得られるという意味だ。

 東北楽天にこの格言を地で行った人がいた。野村監督以後の2011~17年に在籍した松井稼頭央。43歳になる2018年まで息長く、日米通算で歴代5位2705安打を誇った名選手。年間3割30本塁打30盗塁のトリプルスリー達成者でもある。彼の逸話を一席。

スーツ姿からも屈強な肉体を感じさせる松井稼=2015年11月19日、仙台市の球団事務所

 タンクトップが似合うボディービルダー同然の肉体美、衰えを知らないスピード。「どうしてその体を保てるんですか」。41歳になろうかというころ、彼に聞いた。答えは「実はある方を目指して努力してきた」。

 1990年代後半にさかのぼる。20歳代前半の松井稼は球界随一のスピードスターだった。テレビ番組の企画で、ある有名人と100メートル走対決に臨んだ。相手は30歳代後半。松井稼は「負けることはないだろう」と高をくくっていた。

 いざ号砲。

 予想に反して、相手がスタートから一気に先行した。「これはまずい」。背中を追う松井稼は急加速。最終的に追い抜いてゴール。勝つには勝ったが、ある意識が芽生えていた。「自分が40歳になった時、あの瞬発力とスピードで走っていたい」。憧れの対象となった人とは?
 井手らっきょさん。

 20代の頃から芸能界きってのいだてんで知られ、衰え知らずだった。ビートたけしさん率いる「たけし軍団」の一員として、裸体を披露する芸人以外の顔もあった。何せ、阪神に勝ったこともある軍団草野球チームの看板選手だった。

 受けた刺激をすぐに忘れるのが凡人。胸に刻んで努力し続けたからこそ、松井稼はレジェンドたり得た。エピソードはそれを示す。

 さて、野村監督は「示唆に富む言葉や哲学を持たなければ、リーダーの資格がない」が持論だ。だからプロ野球の元旦に当たる2月のキャンプ初日、ミーティングでは人生哲学を説いた(第9回『世のため、人のため』参照)。

 その門外不出の語りをまとめた晩年の自著がある。「野村克也 野球論集成」。生涯100冊超の自著の中、オンリーワンにしてベストオブベスト。秋の夜長、野球好きでなくても「わが師」になり得る一冊です。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

河北新報のメルマガ登録はこちら

企画特集

先頭に戻る